正信偈に登場する七高僧の道綽禅師はどんな人なのか

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道綽禅師について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、仏教には時代にあった教えに帰依するべきであると末法思想を広められた方です。

道綽決聖どうなんしょ〜って人でしょ?
空耳の名前だけはあってるね
お経の中ではテンポいい所だよ

道綽禅師について

正信偈の中で「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」と述べられています。ここに道綽禅師の名前が登場し、その功績を讃嘆されています。

562年に中国でお生まれになりました。出生地は、中国の山西省です。曇鸞大師が御往生されてから20年後、聖徳太子(574−622)とほぼ同時代を生きた人です。

道綽禅師の主著に『安楽集』という本があります。

当時の中国は南北朝時代の末期で、北斉・北周・陳の三国が対立していました。道綽禅師を生まれた北斉では、いなごの大群による作物への被害や干魃・水害によって飢饉が起こりました。そのため食べ物をめぐる争いが度々起こり、大変厳しい時代を過ごされました。

そんな中、道綽禅師は14歳で出家をされます。が、翌年の春、北周が北斉を滅ぼして北中国全体を統一した武帝は、仏教を禁止し、すべての僧侶を還俗させ、仏像は壊され、経典は焼き捨てられました。その徹底した廃仏運動は、中国の長い歴史の中でも4本の指に入るほどの法難(仏教が弾圧されること)でした。

この廃仏運動も長くは続きませんでした。武帝が北斉を滅ぼした翌年、帝自身が亡くなり、その後北周が滅び、随が起こります。

随の時代には、直ちに仏教再興の許可が降りて、道綽禅師は20歳で再び出家されます。

道綽禅師が仏教を求めようにも、時代の政権によって仏教が護られたり禁止されたりと、激動の中で過ごされたことによって、道綽禅師の思想に大きな影響を及ぼしました。

道綽禅師の転機

出家が許された20歳から、主に『涅槃経』を研究し、広く伝えることに努め、24回も講義されました。

しかし、いくら『涅槃経』について詳しく研究し、広めたとして、道綽禅師の心は満たされませんでした。経典の研究によっては、人間の煩悩の問題は解決しないからです。

そこで、教えを実践するためにエザン禅師のもとで修行をされます。お釈迦様の時代の教団を理想とし、人里離れた所に住み、粗末な衣服をまとい、托鉢によって食事を受け、座禅にうちこみ、そして悟りの空の智慧を体現しようと修行に打ち込みます。

30歳の頃から10数年間、そのような生活が続きました。『涅槃経』に満たされず、実践の場として修行に打ち込まれた道綽禅師でありましたが、結局修行によって明らかになるのは、どれほど修行に励んでも、煩悩を断つことは出来ない我が身であるということでした。

そこで、曇鸞大師ゆかりの玄中寺に参ります。

そこで曇鸞大師の碑を見て感動し、浄土の教えに帰依されました。その頃には48歳になっていました。

それより念仏者として84歳で御往生されるまでに、『観経』を講ずること200回、毎日念仏すること7万回称え、自らの生き方から僧侶のみならず、町の人々にも教えを広められました。

道綽禅師の教え

道綽禅師は『安楽集』を記されました。

曇鸞大師の『大経』中心の教えから、善導大師の『観経』解釈の橋渡しをする重要な書物です。

その教えの中心には「約時被機」という教えです。それは仏教の三時思想を改めて明らかにされた教えとなりました。

三時思想とは、仏教の歴史を3つの時代に分けられます。『大集月蔵経』にもその様子が説かれていますが、

末法思想

正法・・・お釈迦様の教えが正しく残り、正しい修行があり、悟りがある時代です。
像法・・・お釈迦様の教えが正しく残り、正しい修行があるが、悟りがない時代です。
末法・・・お釈迦様の教えだけが残り、修行も悟りもない時代です。

その時代の区分は諸説ありますが、道綽禅師の時代にはすでに末法に入った時代でした。道綽禅師の時代には、災害や飢饉が起こり、仏教弾圧の時代と激変の時代でした。その様は、まさに末法到来を感じずにはいられなかったのでしょう。

真剣に教えを求め、悟りに向き合った道綽禅師が見つけたことが、末法の世の中で、厳しい修行によって悟りを求めるのではなく、末法の世の中でも仏になれる道を見出しましました。それが念仏でした。時代と人々に相応しい教えこそ、だれでも称えやすく阿弥陀様に身を任せるという「約時被機」という教えです。

道綽禅師の功績

そこで道綽禅師は、時代に合う仏教とは何なのかを2つに分けられました。

それが浄土門と聖道門という考え方です。浄土門とは阿弥陀仏の願力に身を任せお浄土に往き生まれていく教えです。一方、聖道門とは阿弥陀仏以外の仏を信じ、自らの力を頼りとして浄土での悟りを目指す方法です。これは苦しみ悩みのある凡夫には困難な道です。

道綽禅師は浄土門と聖道門とを分けて考えた上で、この末法の時代には正しい修行も、悟りもない時代だからこそ「浄土門」への帰依を勧められました。

安楽集

一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。
二には理は深く解は微なるによる。

とあります。道綽禅師は念仏を大切にされましたが、それは自分が称えた功徳を頼りにしたのではなく、お阿弥陀様の救済を喜ばれたお念仏でした。

親鸞聖人が道綽禅師を七高僧に選定した理由

七祖の選定した理由に、

ポイント

①阿弥陀仏の本願に生きられた人
②書物を残して阿弥陀仏の教えを広めた人
③阿弥陀仏の本願について、真意を明らかにされ解釈した人

という点から考えると、道綽禅師はお釈迦様の時代から時が過ぎた私達には浄土門と聖道門とに分けられて、浄土門を勧められました。

親鸞聖人の記された正信偈の中には「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」とあります。

ですので、親鸞聖人が七高僧の道綽禅師の選定理由として

①自力の念仏ではなく、阿弥陀様の願いにかなった他力の念仏に生きられた
➁『安楽集』を残し、浄土門を勧められた
③浄土門と聖道門に分けて、仏教を考え、時代に合うのは浄土門であると示された。

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