新しいお寺のかたち

正信偈の解説と現代語訳

帰命とは

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帰命の意味

心から信じ敬う。浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀如来の勅命の意とし、またその勅命に帰順する(信じしたがう)という意味。浄土和讃異本左訓には「おほせにしたがふ」と釈されている。また帰命には<ruby>礼拝<rt>らいはい</rt></ruby>の意味もある。

仏教では、身体を屈して敬礼することをさし,特に合掌することをいう。転じて,全身全霊をもって仏陀に傾倒することなどと解釈されるようになった。

今では、仏の教えを信じて、そのまことを表わすことを帰命という。

南無阿弥陀仏とは、南無は帰命、阿弥陀仏は信仰の対象であるので、「阿弥陀如来に帰命し、仏の教えを信じ、この身をお任せします」という事です。

なぜ帰命なのか

私たちは、色んなモノを持って生活しています。お金、地位、会社、家族、知識、健康、体力などがそれに当たります。それらが私達の依り所となり、それが目標となるから、「お金や地位のために頑張ろう」と生活に張りが出てきますし、またそれが活力となります。

しかし、お金や地位、まして健康などはいつも自分の思い通りになるとは限りません。むしろそうならないことの方が多いのが人生です。そして思い通りにならないとき、私たちは悩みますし、元気をなくしてしまいます。やがて生きていく目標を見失い、生きているのが辛くなります。なぜそのようになってしまうのか。それは依り所とするものが、時や状況のなかで変化していくからです。

努力すれば幸福になる。誰しもそれを求めているのですが、私たちの求めている幸福は、無明煩悩にもとづく幸福であり、不幸という場合も無明煩悩にもとづく不幸なのです。お釈迦さまはそれを見ぬかれて、一切は苦である」とあっしゃられました。そのお釈迦さまは、「無常」なる世に固定的な実体はないといわれ、「無我」なるさとりの境地を体得されて、縁起の道理を説かれたのでした。

帰命の対象とは

それでは、この世の中にある、どのようなことが起こっても、揺らぐことのない、究極的な依り所とは一体何なのでしょうか。

親鸞聖人は、『浄土和讃』の中で

ポイント

<ruby>畢竟依<rt>ひっきょうえ</rt></ruby>を<ruby>帰命<rt>きみょう</rt></ruby>せよ

とお示しくださいました。畢竟依の意味は、究極の依り所ということです。ですので、「畢竟依に帰命せよ」とは

現代語訳

本当に依るべき究極の依り所を根拠として生きなさい

と親鸞聖人はお示しくださっています。時代によらず、環境によらず、本当に帰命できるものとは、阿弥陀仏ただ一仏であり、お金や健康、地位などは一切帰命の対象ではないことを教えてくださっているのです。

帰命と阿弥陀仏の関係

親鸞聖人の著書『<ruby>尊号真像銘文<rt>そんごうしんぞうめいもん</rt></ruby>』には

ポイント

帰命ともうすは如来の勅命にしたがうこころなり

と示されています。これは天親菩薩の『浄土論』冒頭の「<ruby>世尊我一心<rt>せそんがいっしん</rt></ruby> <ruby>帰命尽十方<rt>きみょうじんじっぽう</rt></ruby> <ruby>無擬光如来<rt>むげこうにょらい</rt></ruby>」の「帰命」を解釈されたのが、「帰命ともうすは如来の勅命にしたがうこころなり」という一文です。

現代語訳

「帰命」とは「南無」であり、また「帰命」というのは阿弥陀仏の本願の仰せにしたがうという意味である。『尊号真像銘文』

と述べられています。

「帰命」とは「南無」

親鸞聖人はお手紙の中で、

ポイント

帰命は南無なり。無磯光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたちをしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんとて、世親菩薩(天親)御ちからを尽してあらはしたまへるなり。

と、示しておられます。

凡夫による帰命

親鸞聖人は『教行信証』「行文類」に曇鸞大師のお言葉を引用されて、私たち凡夫性を次のように述懐されます。

ポイント

いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。

と、煩悩に汚れた心で修した行為はさとりに適っていないもので、因も果もいつわりである。私たちの人間生活は、無明煩悩にもとづいた迷いの努力の積み重ねで、迷いの因果でしかないといわれます。
したがって、親鸞聖人は、顛倒・虚偽でない真実真如に順じた、如来の名号の救いにより、浄土往生の正しき因を頂戴してさとりの果に至るという、阿弥陀さまによる真実の因果の道理に、私たちを導かれたのです。

帰命の説明

親鸞聖人は、善導大師の解釈を承けられて、南無阿弥陀仏の「南無」は帰命という言葉であるが、「帰命」とは、お釈迦さまが「お浄土へ参れ」という勧め遣わす教法の声(発遣)と、阿弥陀さまの「帰命せよ」と招き喚ぶ本願の仰せ(招喚の勅命)である、と理解されます。また、二尊の教命により弥陀の本願大悲心の召しに適うという、勅命に信順した言葉として解釈されます。
『尊号真像銘文』のこの文は、「帰命と申すは如来の勅命にしたがうこころなり」と、如来より「帰命せよ」との招喚に信順し真実信心を頂戴した、衆生の立場からご解釈されています。
一方で、『教行信証』「行文類」では六字の名号をご自釈されて、「南無」とは、私の信順に先んじた如来の招喚する「帰せよ」の勅命で、如来がすでに因位の時に誓願を起こされ発願されて、衆生の行を回施された(「発願回向」)如来の大悲心とされます。また、それは如来が第十八願に誓われた行(「即是其行」)であると、六字の全体を阿弥陀さまの救いのお立場から解釈されています。
このように親鸞聖人は、釈迦・弥陀の勧めと喚び声に対して信順され、「帰命」と名号を称えて、浄土往生を願われたのでした。私たちは、天親菩薩が力をつくして示された仏さまの救いの御名を聞いて、阿弥陀さまの真実功徳が、まさにこの凡夫の世界に満ち満ち、いかなる時においてもその大悲の中に願われ生かされていることを知らねばなりません。その阿弥陀さまに信順するところに、間違いなく浄土に生まれさせていただける安心ができるのであります。

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