現代語訳
迷いの世界に輪廻することは、本願を疑うからである。
この度は、正信偈「還来生死輪転家 決以疑情為所止」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
還来・・・再び元の場所に帰ってくること
生死輪転・・・迷いのこと。欲望煩悩によって「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界」の世界を車が回るように、果てしなく繰り返すこと。
疑情・・・阿弥陀仏の本願を疑うこと
所止・・・迷いの世界に止まることの理由と原因
正信偈の原文
還来生死輪転家
げんらいしょうじりんでんげ
決以疑情為所止
けっちぎじょういしょし
正信偈の書き下し文と現代語訳
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす
迷いの世界に輪廻することは、本願を疑うからである。
正信偈の分かりやすい解説
生死輪転とは
この度は、七高僧の7番目の法然聖人について説明します。親鸞聖人は法然聖人から直接教えを聞き、念仏の教えに帰依されました。
「生死」とは、「せいし」と読まず仏教では「しょうじ」と読みます。「生きることと死ぬこと」という意味ではなく、「迷い」という意味です。
欲望煩悩に振り回される私たちは、目先の出来事に気を取られて、物事を損得で考えてしまい、大切なことを見失って生きています。それは真実を見失って生きているということです。真実を見失って生きているということは、迷っているということです。しかも、欲望煩悩に振り回されている私たちは、迷っていることにも気づかず、迷ったまま、それが当然のことのように生きています。だから、さらに次々と迷いを重ね苦しみ悩んでいるのです。
これを「正信偈」の中で「生死輪転」と記されています。
「輪転」とは、車が回るように果てしなく繰り返す流転輪廻を表します。ですので、「生死輪転」とは、迷いの世界を何度も何度も繰り返し、「還来」して帰ってきてしまうのが私たちだと明らかにされました。
「還来」とは、「還り来る」ということで、もとの所に戻るという意味です。この二文字を親鸞聖人は「かえる」と読んでおられるのです。私たちは、迷いの状態が自分の帰る所であるかのように錯覚して、何度も何度も迷いの状態に帰ってしまうというのです。
どうして、この苦しみ悩みから開放されないのか。親鸞聖人は「正信偈」の中で「疑情」があるからだと示されました。つまり「疑う心」が原因だと教えておられます。
苦しみ悩みに直面しなければならないのは、個人の生き方や考え方が問題ではありません。人の資質や能力の問題ではありません。その人の生い立ちや環境の問題でもありません。問題は、「生死」(迷い)から離れられず、真実に無知であり、仏の教えを疑うからだと記されています。
お釈迦様は、苦しみ悩む人のために『仏説無量寿経』をお説き、阿弥陀仏がすべての苦しみ悩む人を極楽浄土に導きたい、すべての人の苦しい悩みから開放したいと願っておられます。親鸞聖人や法然聖人など皆々が阿弥陀仏の本願にお任せしなさいとお勧めくださっているのです。
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法然聖人とは、どんな人なのか
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疑情について
ところが、私たちは教えを疑い信じようとしないのです。
なぜ疑う心が生ずるのか。それは、仏教の教えに出会っても、自分の心にある自分中心の考え方を重視しているからです。仏の教えよりも、自分の考え(知識や経験)を重視しているからです。
自分の考え方と事実とは、必ずしも一致しているとは限りません。しかし自分は大体にわかっていると思い、自分を信じるのです。実は欲望煩悩に振り回されているにも関わらず、振り回されているとは思っていないのです。それほどまでに私たちは、自分たちの姿には気づいていないのです。そんな私たちを凡夫といいます。
凡夫は自分の考えを無条件に信用して、自分の価値観に照らし合わせて教えを判断し批判します。教えを素直に聞けず、自分の考えが仏教の教えに合わない部分があると、否定してしまいます。食い違いが起こった時には、自分の方が正しく、仏教はつまらないと批判・批評してしますのです。それを「疑い」といいます。「信じる」ことの反対は「疑い」なのです。
法然聖人は『選択本願念仏集』を著し
『選択集』
当に知るべし。生死の家には疑いを以て所止と為し、涅槃の城には信を以て能入と為す
と記されています。このお言葉の部分を、親鸞聖人は、「正信偈」の中で「還来生死輪転家 決以疑情為所止」とまとめられています。
法然聖人が「当に知るべし」(このことは知っておくべきだ)と述べられた所を、教えを受けた親鸞聖人は「決するに」(間違いないことだ)と言い換えられています。それは親鸞聖人が法然聖人の教えを大切に受け取られたお気持ちが表れ出た表現とも言えます。
「知っておきなさいよ」と言われたことを聞いた親鸞聖人は、我が身が欲望煩悩に振り回される凡夫であることに気づき、まさに私が救われていく道は阿弥陀様にお任せするしか道はないと、疑いを捨て信心を頂いた姿から、必ずこの道は救われるに「間違いがない」道であると表現されています。
正信偈の出拠
『選択集』「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。
『選択集』念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。(省略)たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし。これをもつて知るべし。しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。
『銘文』またいはく、「当知生死之家」といふは、「当知」はまさにしるべしとなり。「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生 [類生といふは、一に卵生、二に胎生、三に湿生、四に化生、五に有色生、六に無色生、七に有相生、八に無相生、九に非有色生、十に非無色生、十一に非有相生、十二に非無相生] にとどまるとなり。いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。
『教行信証』もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
『教行信証』悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
『浄土和讃』衆生有礙のさとりにて 無礙の仏智をうたがへば
曾婆羅頻陀羅地獄にて 多劫衆苦にしづむなり
『正像末和讃』往相・還相の回向に まうあはぬ身となりにせば
流転輪廻もきはもなし 苦海の沈淪いかがせん
『正像末和讃』罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
『教行信証』仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし
『教行信証』雑行の中の雑行雑心(省略)雑修雑心は、これみな辺地胎宮懈慢界の業因なり
『ご消息』この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。
『三経往生文類』観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。
『三経往生文類』弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども、定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ、自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども、如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。