現代語訳
きわめて罪の重い悪人はただにち念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩が私の目をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てることなく常に照らしていてくださると述べられた。
この度は、正信偈「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
極重悪人・・・極めて罪の重い悪人
唯称仏・・・ただ仏の名を称える
我・・・ここでは源信僧都ご自身のこと
摂取・・・摂めとって捨てないこと。摂取不捨の阿弥陀仏の光明のはたらき。親鸞聖人の注釈には、「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追わえ取るなり。摂はおさめとる取は迎えとる」と記されています。
正信偈の原文
極重悪人唯称仏
ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ
我亦在彼摂取中
がやくざいひっしゅちゅう
煩悩障眼雖不見
ぼんのうしょうげんすいふけん
大悲無倦常照我
だいひむけんじょうしょうが
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し】極重の悪人はただ仏を称すべし、われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲倦きことなくしてつねにわれを照らしたまうといえり
【現代語訳】きわめて罪の重い悪人はただにち念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩が私の目をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てることなく常に照らしていてくださると述べられた。
正信偈の分かりやすい解説
極重悪人とは
正信偈も終盤になり、七高僧の第5番目の源信僧都について述べられています。
「極重の悪人」とは、どんな人でしょうか。
一般的に法律に違反することは悪です。法律には違反しなくても、世の道徳・倫理に反することも悪です。しかし、ここでいう悪とは私たちの規範やルールの尺度ではかった善悪というよりも、仏の教えに従えない人、真実に背く人、阿弥陀様が必ず救うとはたらいていてくださっているのに、そのお心を跳ね返すような人、それが「極重の悪人」と示されています。
もっとも他力のはたらきに身を任せることが重要なのに、自力の修行に励み、自らの力を過信して、自分の経験で物事をさばくような人を「悪人」というのです。法律や規範・倫理などとは関係ありません。
阿弥陀様がなぜ私を救おうと願われたのか。それは我が身では、決して苦しみ悩みから抜け出せないと見抜いてくださったからです。私がどんな苦しみに出会おうとも、決して見捨てないのが阿弥陀様だったのです。何度も何度も阿弥陀様のお心を聞かせて頂いても、いつもいつも凡夫である私は忘れて煩悩の炎が燃え盛ります。その度に、何度も何度も我が身の姿を教えられているのです。教えを十分に理解しているつもりになっています。しかし、自己中心的な思考となり、他の人を気づかぬ内に傷つけてしまっている。本当に情けないことですが、私の姿こそが「極重の悪人」と言われるのです。
苦しみ悩む凡夫は、自力の心を離れ、執着する自己中心的な思いを捨てて、ただ「南無阿弥陀仏」を称えなさいということです。
-
-
源信僧都とは、どんな人なのか
源信和尚について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、報化二土を明らかにし、天台宗の立場でありながら念仏を一番に勧められた方です。 源信の名前を知っていると、どうしても「後海」って聞こ ...
摂取とは
正信偈の中で「我また、かの摂取の中にあれども」(我亦在彼摂取中)と述べられています。自分もまた「かの摂取の中」、つまり阿弥陀様の救いの中にしっかりと摂め取られているという事です。
しかし、「かの摂取の中にあれども」とあるように、本願に摂め取られているにもかかわらず、「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」と、凡夫自身の現実を、源信僧都は示されました。絶え間なく湧き上がる欲望煩悩、自我へのこだわり執着が、心の眼を覆い、摂め取って捨てられることのない本願の事実を自分自身で見えなくしてしまっているという事です。
しかし次に、「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」( 煩悩障眼雖不見)とあるように、欲望煩悩によって自分で見えなくしてしまっても、そんな凡夫だからこそ「大悲ものうきことなく、常に我を照したまう」(大悲無倦常照我)と記されています。阿弥陀仏の大悲の光、私が苦しみ悩む凡夫であると見抜いてくださったからこそ救いたいと願われたお心は、あきらめることなく、絶えることなく常に私を照らし護ってくださっているというのです。
ここでは、阿弥陀様の救いのはたらきの中にいるという事実(摂取の中)と、その事実に気づいていない私という現実(眼を障えて)と、この食い違いを示されています。この食い違いを、凡夫の常識を越えた阿弥陀様の不可思議光のはたらきこそが、阿弥陀仏の大悲であるというのです。
正信偈の出拠
『往生要集』四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
『高僧和讃』極悪深重の衆生は 他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ
『往生要集』かの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。
『銘文』「我亦在彼摂取之中」といふは、われまたかの摂取のなかにありとのたまへるなり。「煩悩障眼」といふは、われら煩悩にまなこさへらるとなり。「雖不能見」といふは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたはずといへどもといふなり。「大悲無倦」といふは、大慈大悲の御めぐみ、ものうきことましまさずと申すなり。「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。無礙の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。「我身」は、わが身を大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまふとおもへとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらはしたまふなり。「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。