現代語訳
法蔵菩薩の因位のときに 世自在王仏のみもとで。
この度は、正信偈「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
法蔵菩薩・・・無限の過去に1人の国王があって、出家して法蔵と名乗る。世自在王仏のものですべての人々を救いたいと願い、48の願いを建てられた。願いは成就し10劫の昔に阿弥陀仏となられた。
因位・・・菩薩の位、ここでは阿弥陀仏が仏になる以前の段階を表す。
世自在王仏・・・世間を自在に救うことができる仏。はるか限りない昔、たくさんの仏様がお出ましになられ53番目の最後の仏様が「世自在王仏」だった。その世自在王仏が、阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩の師仏であり、法蔵菩薩にたくさんの諸仏の世界見せた。現在私たちが仏教に出会っていることが、これらのご縁が重なり、どれほどのご苦労とご修行があったかを教えてくださる。
正信偈の原文
法蔵菩薩因位時
ほうぞうぼさついんにじ
在世自在王仏所
ざいせじざいおうぶつしょ
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】法蔵菩薩の因位時 世自在王仏の所にましまして
【現代語訳】法蔵菩薩の因位のときに 世自在王仏のみもとで
正信偈の分かりやすい解説
段落について
この2句から「依経段」が始まり、阿弥陀仏がまだ法蔵という名の菩薩であられたときのことが述べられます。
はじめに「正信偈」の段落について説明します。
「法蔵菩薩因位時」からの42句目の「難中之難無過斯」までは、親鸞聖人がお経に基づいて阿弥陀如来のことを讃えておられる部分で、「依経段」といわれています。そして、43句目の「印度西天之論家」から最後の「唯可信斯高僧説」までは、インド・中国・日本に出られた7人の高僧がお示しになった本願についての解釈の要点を掲げて讃嘆しておられる部分で「依釈段」といわれます。
はじめの「依経段」のうち、「法蔵菩薩因位時」から「必至滅度願成就」までの18句は「弥陀章」と呼ばれ、ここに阿弥陀如来の誓いと願いのことが述べられています。次の「如来所以興出世」から38句目の「是人名分陀利華」までを「釈迦章」といい、釈尊がこの世にお出ましになられた意味が明らかにされていいます。そのあとの「弥陀仏本願念仏」から42句目の「難中之難無過斯」までの4句は、「依経段」の結びとなる「結誡」といわれている部分です。
今回は「依経段」の「弥陀章」についてお話をしていきます。
ポイント
【帰敬序】帰命無碍光如来 南無不可思議光(2行14文字)
【依経段】法蔵菩薩因位時〜難中之難無過斯(42行294文字)
【依釈段】印度西天之論家〜唯可信斯高僧説(76行532文字)
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3部構成の正信偈の段落について
お経の途中から音程が変わるけど、意味があるの? 3つの段落から構成されているけれど、音程が変わるところは段落の節目じゃないんだ まぎらわしいところで音程が変わるんだね 正信偈は3つの段落で構成されてい ...
菩薩について
まず「法蔵菩薩」についてですが、菩薩とは、人びとを導き救うために仏になろうとしておられる人のことです。仏になられる前の段階をいいます。
世間の人びとは、真実に気づかず、煩悩(欲望)にとらわれています。そのため迷いを重ね、誤った生き方をしながら、それが正しいと思い込んでいます。その結果、人びとは悩み苦しまなければならないのです。菩薩は、みずから悟りを求め仏になって、苦しみ悩むすべての人びとを救い導くのです。
菩薩がこの目的を達成するための修行をされる段階を「因位」といいます。その「因位」のときの菩薩の行が完成し、願いがかなえられて(つまり全ての苦しみ悩む人々を救うことが出来る)仏になられた、その仏としての地位を「果位」といいます。
もともと「菩薩」とは、仏になられるまでのお釈迦様のことでした。しかしお釈迦様の教えを受けた当時の人は、導いてくださるお釈迦様の恩徳に感謝を尽くます。やがて、苦しみ悩む人を仏教によって救いたいという思いが仏教の根本精神となり、「菩薩」の解釈が広がり、釈尊お一人に限ることはなくなりました。
仏説無量寿経
遠い遠い昔(これを久遠ともいう)、阿弥陀仏がまだ仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたとき、すべて人びとを救いたいという願いから、<世自在王仏>という仏に仕えて教えをお受けになられた
と説かれています。法蔵菩薩はたまたま阿弥陀仏になられたのではなくて、過去と現在と未来の人びとを救いたいと願われ、菩薩としての行を尽くしたから、阿弥陀仏になってくださったのです。ここのあたりは、お釈迦様の前世物語であるジャータカという本を読まれると良いかもしれません。
親鸞聖人のお気持ち
親鸞聖人の中で阿弥陀様とは、いったいどのような存在だったのでしょうか。『歎異抄』に、
歎異抄
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり
という親鸞聖人のお言葉が伝えられています。
現代語訳
阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか
と、親鸞聖人は述べておられます。お経のどこにも「親鸞1人を救う」とは書かれていません。お経には、すべての苦しみ悩む人を救うと記されています。しかし、親鸞聖人は誰一人として救済からこぼれ落ちる者がいないという誓いこそ、この私が救いからこぼれ落ちないように準備してくださった仏さまの手立てだったと喜ばれたのです。
また仏教では、菩薩が修行をして仏になるという解釈が一般的です。菩薩という時代があって、修行という因に依って、仏になる結果があるという構図です。
しかし、法蔵菩薩(阿弥陀様の前身)の場合には、それとは反対に考えられます。
つまり、私たちには不可思議な存在(仏)が、菩薩の位に降りてきて、法蔵菩薩を名乗られて、修行をして仏になる過程を「凡夫である」私たちに分かる形で表れ出てくださって、阿弥陀如来という仏になられたと、浄土真宗では位置づけています。
正信偈の出拠【参考文】
『大経』この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。
『浄土和讃』南無不可思議光仏 饒王仏のみもとにて
十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する
『大経』乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得しめてすなはち滅度を取りたまひき。次に如来ましましき、名をば光遠といふ。次をば月光と名づく。次をば栴檀香と名づく。次をば善山王と名づく。次をば須弥天冠と名づく。次をば須弥等曜と名づく。次をば月色と名づく。次をば正念と名づく。次をば離垢と名づく。次をば無著と名づく。次をば龍天と名づく。次をば夜光と名づく。次をば安明頂と名づく。次をば不動地と名づく。次をば瑠璃妙華と名づく。次をば瑠璃金色と名づく。次をば金蔵と名づく。次をば焔光と名づく。次をば焔根と名づく。次をば地動と名づく。次をば月像と名づく。次をば日音と名づく。次をば解脱華と名づく。次をば荘厳光明と名づく。次をば海覚神通と名づく。次をば水光と名づく。次をば大香と名づく。次をば離塵垢と名づく。次をば捨厭意と名づく。次をば宝焔と名づく。次をば妙頂と名づく。次をば勇立と名づく。次をば功徳持慧と名づく。次をば蔽日月光と名づく。次をば日月瑠璃光と名づく。次をば無上瑠璃光と名づく。次をば最上首と名づく。次をば菩提華と名づく。次をば月明と名づく。次をば日光と名づく。次をば華色王と名づく。次をば水月光と名づく。次をば除痴瞑と名づく。次をば度蓋行と名づく。次をば浄信と名づく。次をば善宿と名づく。次をば威神と名づく。次をば法慧と名づく。次をば鸞音と名づく。次をば師子音と名づく。次をば龍音と名づく。次をば処世と名づく。かくのごときの諸仏、みなことごとくすでに過ぎたまへり。
その時に、次に仏ましましき。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。
『一多証文』一実真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来なり。宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無礙のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無礙光仏となづけたてまつれるなり。この如来を、南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を、方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。
『唯信鈔文意』法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無礙光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す。誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すは、たねにむくひたるなり。
『教行信証』ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、