現代語訳
自力の行はいくら修めても劣っているとして、ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをお勧めになる
この度は、正信偈「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
万善・・・万行諸善ともいう。どのような善行であっても自力であり、浄土に生まれることができない方法
自力・・・自身の修めた身口意の3つの行いの善根によって成仏を求め、他力(阿弥陀仏の救済)に任せないこと
貶・・・いけないとおさえ、おとしめること
勤修・・・勤め修めること
円満徳号・・・功徳が完全に満ち足りている名号(南無阿弥陀仏)
勧専称・・・もっぱら念仏することをすすめること
正信偈の原文
万善自力貶勤修
まんぜんじりきへんごんしゅ
円満徳号勧専称
えんまんとくごうかんせんしょう
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】万善の自力、勤修を貶す、円満の徳号、専称を勧む
【現代語訳】自力の行はいくら修めても劣っているとして、ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをお勧めになる
正信偈の分かりやすい解説
おさらい
七高僧の第4番目の中国の道綽禅師について、お話します。
道綽禅師はお経を読み深めることによって、末法の時代に仏に成る方法に、「聖道門」と「浄土門」の二つの道があると示されました。
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末法の時代とは、どんな時代でしょうか
現代語訳 道綽禅師は、聖道門の教えによってさとるのは難しく、浄土門の教えによってのみさとりに至ることができることを明らかにされた。 この度は、正信偈「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」について意味を分か ...
「聖道門」は、悟りにむけて自らの力を信じ、煩悩を滅し克服するために厳しい修行に励む道です。この道を進むには、常に誘惑に打ち勝って、ひたすら修行を積み重ね、努力を続けることが重要です。つまり凡夫の我々でには不可能な「難行道」です。
お釈迦様の時代であればともかく、今や、時代が遠く隔たった末法の世の中であると記されています。世の中に邪悪な考え方がはびこり、欲望が深まり、悟りをひらける世の中ではありません。
そんな中、自らを信じ、努力の成果を期待することが自らの歩む道なのか、それが問題なのです。「難行道」とは「行うのが難しい道」という意味ではなく、凡夫の私たちには不可能であることを教えられたものです。
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【紹介】善導大師について詳しく説明
道綽禅師について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、仏教には時代にあった教えに帰依するべきであると末法思想を広められた方です。 道綽決聖どうなんしょ〜って人でしょ? 空耳の名前だけは ...
勤修を貶すとは
道綽禅師は自らに向けて、末法の世の中で自らが歩む道を問われたのです。
煩悩を滅すことが出来ない私、常には誘惑に打ち勝てない私、努力を続けることが出来ない私、そして厳しい修行を積み重ねられない私だと自覚をすればこそ、思い上がりを捨て、真実の自分と向き合われたのです。そして凡夫を何としても助けたいと願われる阿弥陀仏の本願に帰依(おまかせ)されたのです。そのような自覚から開かれてくるのが「浄土門」であり、「易行道」であると教えられました。
自分の力では仏に成ることができない凡夫を浄土に迎え、そこで仏に成らせよう願っているのが阿弥陀様です。しかも、煩悩を断つことができず、自分の力では浄土に往生することができない凡夫を、そのままで往生させるために、阿弥陀様が私たちに届けてくださっているのが「南無阿弥陀仏」です。南無阿弥陀仏(お念仏)をそのまま受け取って称えるように勧められています。
だから、「専称」もっぱら南無阿弥陀仏を称えることを勧められました。
万善の自力とは
「万善の自力」とは、悟りをひらくために自分の力を信じて実践するさまざまな修行をする「聖道門」のことです。
道綽禅師は、厳しい修行をしても末法の世の中で凡夫は悟りをひらけないと明らかにして、修行第一主義のものに対して勤め励もうとすることを退けられました。「貶する」とは、「退ける」という意味です。
こうして、自力の修行を退けられた道綽禅師は、「円満の徳号」を専ら称えることを勧められました。「円満の徳号」とは、すぐれた功徳が完全にそなわった名号、すなわち「南無阿弥陀仏」にことです。
「功徳」とは、私の行いによって積み重ね、蓄えられた功徳ではありません。凡夫が行う「善い行い」(善行)には、仏になれる功徳など一切ありません。私ではなく、阿弥陀様が善い原因をお作りになって、それによって生ずる善い結果が私たちに振り向けられている功徳です。
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私の積み重ねる功徳ではなく、阿弥陀様の功徳と頂く
現代語訳 本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば、浄土に往生する身とさだまる。 この度は、正信偈「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」について意味を分かりやすく解説します。 語句説明 帰入・・・はから ...
円満とは
「円満」とは、「夫婦円満」、「家庭円満」というように使いますが、意味は「まどかに満ち満ちていること」、「満ち足りて欠けたところがない」ことをいいます。私たちの思い上がりで称える念仏(南無阿弥陀仏・名号)では、どうしても私たち凡夫の都合が入り混じり、偏りがあって、欠けるところが出てきます。
しかし、阿弥陀様が準備をして良い原因を作ってくださり、完全なまでの功徳を「南無阿弥陀仏」という名号に込めて、私たちに振り向けてくださっている(他力の)はたらきであれば、「円満」であり欠けた所はなく満ち足りた功徳によって、私たちは浄土に参り仏となるのです。
親鸞聖人も、道綽禅師も自らの真実の姿を認め直し、愚かで誤った「はからい」から離れて、阿弥陀様の「必ず救う、我に任せよ」との仰せのままに、素直にしたがうように教えてくださっています。
正信偈の出拠
『ご消息』聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
『教行信証』おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。
『安楽集』もろもろの余の三昧、三昧ならざるにはあらず。なにをもつてのゆゑに。あるいは三昧あり、ただよく貪を除きて瞋痴を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除きて痴貪を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除きて貪瞋を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除きて過去・未来の一切諸障を除くことあたはず。もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来を問ふことなく一切諸障ことごとくみな除こる
『教行信証』この行はすなわちもろもろの善法を摂しもろもろの徳本を具せり。極速円満す。真如一実の功徳宝海なり。