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正信偈の解説と現代語訳

正信偈の意味【帰命無量寿如来 南無不可思議光】全文現代語訳

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現代語訳

限りない命の阿弥陀如来にお任せし、思いはかることのできない光の阿弥陀如来に帰依きえしたてまつる。

この度は、正信偈「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

帰命きみょう・・・昔のインドの言葉、サンスクリット語の「ナマス」が漢訳されたもので、心から信じ敬うという意味。「帰依きえ、お任せする」という事。阿弥陀様が「苦しみ悩む私たちを必ず救う」という事に、我が身を任せること。その仰せにしたがうこと。つまり南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏に我が身をまかせる」という意味です。

南無なも・・・帰命と同じ意味。「なむ」ではありません。しかし浄土真宗大谷派では「なむ」と使われます。

無量寿むりょうじゅ・・・昔のインドの言葉、サンスクリット語の「アミターユス」を漢訳したもので、無量寿とは限りない命(寿)の仏様という意味。救いの時間的無限性を表し、これから先も絶えることがない。

如来・・・仏様のこと。

不可思議光ふかしぎこう・・・昔のインドの言葉、サンスクリット語の「アミターバ」を漢訳したもので、無量光とは限りのない光の仏様という意味。空間的な無辺性を表す。つまり救済の範囲は無限の空間であることを表す。

帰命無量寿如来って始まるけど、呪文みたいだよね
実は1つ1つ意味がある言葉なんだよ
それなら分かりやすく横に解説あればいいのにね

正信偈の原文

帰命無量寿如来
きみょうむりょうじゅにょらい
南無不可思議光
なもふかしぎこう

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】無量寿如来に帰命し 不可思議光に南無したてまつる

【現代語訳】限りない命の阿弥陀如来にお任せし、思いはかることのできない光の阿弥陀如来に帰依したてまつる。

正信偈の分かりやすい解説

帰命とは

「正信偈」は、「帰命無量寿如来」から始まり「唯可信斯高僧説」までの840文字のことです。念仏以降の部分を和讃わさんといいます。
「帰命無碍光如来 南無不可思議光」の二句は、「帰敬序ききょうじょ」といわれ、書籍でいう「はじめに」にあたります。「阿弥陀様に我が身をお任せする」ということが2度重ねて「帰命無碍光如来 南無不可思議光」と書かれています。冒頭に著者である親鸞聖人ご自身のお気持ちが示されることで、「正信偈」の方向性を明らかにし、自らの阿弥陀様への信仰を表明されているのです。

段落
帰敬序・依経段・依釈段と3つに分けられた理由

お経の途中から音程が変わるけど、意味があるの? 3つの段落から構成されているけれど、音程が変わるところは段落の節目じゃないんだ まぎらわしいところで音程が変わるんだね 正信偈は3つの段落で構成されてい ...

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「帰命」と「南無」は同じ意味です。「帰命」は、「ナマス」というインドの言葉サンスクリット語を中国の漢字に翻訳されたものです。仏教は昔のインド、お釈迦様が誕生されたことから始まります。お経はすべてサンスクリット語で書かれ、中国に伝えられました。そして三蔵さんぞう法師ほうしなどたくさんのお坊さんによって翻訳されたのですが、「ナマス」の意味を中国の言葉に置き換えて「帰命」と訳したり、ナマスの発音を漢字に写し換えて「南無なも」という字を当てはめました。帰命も南無も同じで「どころ、お任せする、身を委ねる」という意味です。

「お任せする、身を委ねる」という意味では、「帰命」以外にも「信従しんじゅう」「度我どが」「救我くが」という言葉もありましたが、帰命という言葉が適役とされて使われています。もしかしたら、「信従無量寿如来」となっていたかもしれません。

如来とは

如来とは、仏さまのことです。この正信偈では、「無量寿如来」も「不可思議光」も仏様のことです。

そもそも「如来」とは、「如」は「如実にょじつなるもの」=「真実」という意味です。「真実」を悟られたのが仏(仏陀ぶっだ覚者かくしゃ、真実に気づいた者)ですが、仏とは自身の悟りの境地にとどまることなく、「真実」に気づかない「迷える私たち」に、「真実」を知らせようと、はたらき行動を起こします。その「はたらき」を「如実」(真実)から「来迎らいこう」してくださった方、つまり「私に真実を知らせる為に来てくださった」という事で「如来」=「仏様」というのです。形のない「真実」は、いつでも、どこでも、はたらいていますが、その救済の中心には、「今」「ここで」「私を目当て」として阿弥陀様の救済はあるのです。

無量寿とは

「無量寿」とは、量に限りが無い寿命ということです。『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』というお経には、阿弥陀如来がまだ仏にられる前のことが説かれています。そのときは、法蔵菩薩ほうぞうぼさつという菩薩のくらいだったですが、仏に成る前に48の願いを起こされました。そしてその願いがすべて成就じょうじゅし、阿弥陀仏に成られたとお経には説かれています。その48願中の第13願には「寿命無量じゅみょうむりょうがん」といわれ、

第13願

私が仏に成るとしても、寿命に限りがあるならば、私は仏には成らない

という願いを建てられました。その願いが成し遂げられて仏と成られたので、阿弥陀如来の寿命は無量というのです。過去と現在と未来と、いつも悩み苦しむ人びとがいます。それらの人びとを、すべて救いたいと願われる阿弥陀仏は、無限の寿命なのです。阿弥陀仏の寿命には限りがないから、今こうやって私達が仏教に出会えているのです。

反対に言えば、私達人間の寿命が尽きるまで苦しみ悩みは一切絶えることなく存在し、今も昔も、これからも人間は苦しみの真っ只中に生まれてきた存在であると知らされるのです。決して人生は楽園であるとは言えないのが、私達の近い将来の老病死の問題であり、その問題を解決するために阿弥陀様は無量寿という無限の命の姿となって、私達に教えを説かれています。

阿弥陀経には

阿弥陀経

かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量むりょう無辺むへん阿僧祇劫あそうぎこうなり。ゆゑに阿弥陀と名づく。

阿弥陀様を、無量寿無量光と表されますが、中国では無量寿仏と表現されます。『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』といったように、無量寿という言葉が経典の題名にも用いられています。これは中国の歴史の中で、不老不死を求めた逸話が多かったことが原因と考えられます。曇鸞どんらん大師が仙経せんぎょうを求めたのも、不老不死が目的だったことからも、1つの理想とされていました。

しかし、親鸞聖人は無量寿という表現よりも、無量光の表現を多く使用していました。

中国
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無量光とは

「不可思議光」の「光」は、阿弥陀如来の私を照護しょうごする力(はたらき)です。親鸞聖人の残された書写には、「帰命きみょう尽十方じんじっぽう無碍光むげこう如来にょらい」「南無不可思議光」や、親鸞聖人の主著である教行信証きょうぎょうしんしょう本典ほんでん)の中では、「大行だいぎょうとは無碍光如来のみしょうするなり」といったように、阿弥陀様を表す時に、無量寿という表現よりも無量光の表現を多用された。

なぜ光で表現されたのでしょうか。

暗闇に光が入れば周りが見えるように、阿弥陀様の光によって私たちの周りはひかりらされます。すべてのものを照らし出す仏の「はたらき」を不可思議光ふかしぎこうと言い表されています。「思議」とは私たちが頭で考えたり、想像したり表現したりすることです。それが私たちには「不可ふか」(できない)から阿弥陀様のことを不可思議といいます。私たちの人間の頭では限界があります。その限界を超えた存在だからこそ、「不可思議光」といわれるのです。『仏説無量寿経』の48願中の第12願が「光明こうみょう無量むりょうがん」といわれています。

第12願

私が仏にるとしても、光明に限りがあって、あらゆる世界を照らし出さないのであれば、私は仏には成らない

と誓われています。その誓いが実現し、阿弥陀仏の照護しょうごする「はたらき」が、無限の空間を包み込むことを表わしています。

また阿弥陀経には

阿弥陀経

かの仏の光明無量にして、十方じっぽうの国を照らすに障礙しょうげするところなし。このゆゑにごうして阿弥陀とす。

とあります。照らしさえぎられることがないということは、どこにいても阿弥陀様の救済の中であることを表しています。こうして親鸞聖人は、一言一言の論拠ろんきょを確かめられた上で「正信偈」を作られました。

まとめ

正信偈の「帰命無碍光如来 南無不可思議光」とは、親鸞聖人の書き始めの信仰表明であり、「阿弥陀様に我が身を任せる」と重ねて2回同じ言葉を繰り返されています。

補注

一言付け加えますが、最初の2句を親鸞聖人の信仰表明という見方以外にも、「南無阿弥陀仏」それすべてが仏さまの「名前」だという見方もあります。唯信鈔ゆいしんしょうには「[尊号そんごう]と申すは南無阿弥陀仏なり。」と記されており、「南無」はお任せするのではなく、仏さまが「私たちに南無させる」という見方です。これは後に出てくる信心しんじんに関係しますが、「私が信じたのではなく、阿弥陀様によって信じせしめられた」といった使い方があります。

この違いは、衆生しゅじょうの立場で考えるか、仏さまの立場で考えるかの違いによって表現が変わります。確かに信心とは、我が心でおこす信心ではないので信ぜしめられるのですが、阿弥陀様の救済(はたらき)が届いた私の立場で考えると、信じる身になったと言えます。

正信偈の冒頭は「帰敬序ききょうじょ」であるという事から、ここでは「私の立場」(ここでは親鸞聖人の立場)から考えて、阿弥陀様に我が身をお任せするという見方が正しい解釈となります。

正信偈の出拠【参考文】

『大経』無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。

『大経』無量寿仏は寿命長久にして称計すべからず。

『阿弥陀経』舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。

『銘文』「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根ををさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。

『本典』つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。

『玄義分』また南はこれ帰、無はこれ命なり。

『本典』南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。

『本典』ここをもつて「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。

『銘文』「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり。帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて、安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。

『浄土文類聚鈔』西方不可思議尊

『銘文』帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。

『観経疏』(散善義)仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、

『本典』大行とはすなわち無碍光如来の名を称するなり。

『唯信鈔文意』「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。

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