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正信偈の解説と現代語訳

正信偈に登場する七高僧の法然聖人はどんな人なのか

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法然聖人(源空上人)について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、数多くある修行の中から念仏が最も重要で、阿弥陀様の救済の証であることを示し、当時は貴族や国家のためだけの仏教から、町の人々に仏教を広められた方です。

法然聖人って名前は、正信偈のどこにも出てないけど
本師源空って出てくるところ。本師源空=法然聖人だよ
名前を使い分けていたのかな?

法然聖人について

正信偈の中で「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人」と述べられています。ここに法然聖人の名前が登場し、その功績を讃嘆されています。

法然聖人=源空聖人なので、ここでは法然聖人と記載します。

法然聖人は、1133年に現在の岡山県に生まれ、80歳で御往生されました。主な著書は、『選択本願念仏集』(選択集)で他にも、『西方指南鈔』、『一枚起請文』などがあります。

9歳の時、明石定明の夜襲にあい、父の時国は亡くなりました。時国は死に臨んで9歳の法然聖人に、

「けっして敵を恨んではいけない、もしお前がかたきを討つならば、親から子へ、子から孫へと争いは絶えない。生きているものは誰も死にたくはないのです。私がこの傷が痛いように、他のものもまたそう思わないはずはありません。私はこの命が大切です。他のものもまたそう思わないはずはありません。自分自身に引き当てて考えなければなりません。どうか自分も他人も救われることを願い、恨みの心なく、一緒に救われることを思っていてほしい」

と、このように言い終わって命終わったということです。

法然聖人は、この遺言に従い出家されました。菩提寺に入るやいなや、その非凡さを見抜かれて、15歳の時に比叡山の皇円の弟子となり天台を学びました。しかし、その頃の比叡山では地位や権力を奪い合う世間と何ら変わらない様子でした。

そこで法然聖人は争いから離れるように黒谷の方で叡空の門下で学びました。黒田には名誉や地位を捨てて真剣に道を求める場所で、たくさんの念仏者が集まる場所でした。また源信和尚の『往生要集』についても講義が行われていました。称名念仏について学ぶ中で惹かれるものを感じながら、法然聖人はまだ広く仏教を学ぶことにされました。

法然聖人の転機

法然聖人の学識は世に知れ渡るようになり、24歳の時には奈良の東大寺や興福寺の学者に会い、教えを学ばれました。そこでは善導大師の教えが深く根付いており、浄土教を学ぶ機会となりました。

そして比叡山に帰ってきてから、また求道の道を求めるのですが次第に源信和尚や善導大師の念仏1つの教えによって救われるという確かな信念を得られるのでした。

それが善導大師の『観経疏』にある

観経疏の散善義

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

この言葉によって、43の時に心の闇が晴れて、念仏往生の教えに帰依されました。

善導大師の称名念仏によって往生を得るという教えは、比叡山での自力の修行を捨て去ることを意味します。善導大師の教えに帰依された法然聖人は、京都の東山吉水に移り、民衆に教えを広め始めるのでした。

法然聖人の教え

それまで、あまり本を残されていなかった法然聖人は、九条兼実の願い出によって『選択集』を記されました。題名の通り、「往生の行として阿弥陀仏が本願に選び取られた念仏」について明らかにされました。聖道門の人々が自力の修行をされるのに対して、阿弥陀仏の選ばれた念仏こそ最も尊い行であることを明らかにされました。自ら比叡山で学ばれて修行をした法然聖人でしたが、山を降りてたことと町中で過ごされたこと、聖道門の教えを捨てて浄土門に帰依されて念仏の教えを広められました。

どんな時代であっても、修行することも、さとりを得ることもできない末法の時代に、どんな尊い教えであっても自らが救われない教えでは何も意味がありません。法然聖人は、比叡山での地位や権力の争いをご覧になり、ますます勉学を深めて修行をされて智慧第一の法然房と周りから敬われても、決して悟りをひらくことができなかったから、善導大師の「仏の願いに順ずるがゆえに」という言葉がどれほど嬉しかったことでしょうか。

法然聖人の功績

法然聖人の功績は、やはり浄土宗の独立でしょう。かつて南都(奈良)仏教は、6つありました。それに比叡山と高野山の天台宗と真言宗の八宗、それに禅宗を加えて9つを聖道門といいました。まだその時には、浄土宗という言葉も宗教もありませんでした。

従来からあった仏教の中から、浄土宗こそ最も時機相応で、人々が依りどころとすることを強く勧めました。

選択集

たとひ先より聖道門を学する人といへども、もし浄土門にその志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。例するに、かの曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣きてひとへに西方の行を弘めしがごとし。上古の賢哲なほもつてかくのごとし。末代の愚魯むしろこれに遵はざらんや。

その勧めは、かつて比叡山で修行された方とは思えないほどの言いようでした。聖道門を捨てるということは、自分が学んだ比叡山をも捨てることでしたが、それでも法然聖人が選び取られたのは、阿弥陀様の教えでした。

また沢山のお経がありますが、その中でも浄土三部経と言って『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』という3つを選ばれました。この3つの経典こそ阿弥陀如来のお心が明らかに示されたお経であることを示されました。

浄土宗を独立させて、浄土三部経を選定されたことだけでは十分ではありません。最後に法然聖人が示されたのが、「どのように教えが伝えられてきたのか」ということです。法然聖人は、道綽禅師、善導大師の伝統を受け継ぐものであり、他にも曇鸞大師・懐感法師・少康法師の5人の伝統を受け継いだ上で、浄土宗の根拠を明らかにされました。

親鸞聖人が法然聖人を七高僧に選定した理由

七祖の選定した理由に、

ポイント

①阿弥陀仏の本願に生きられた人
②書物を残して阿弥陀仏の教えを広めた人
③阿弥陀仏の本願について、真意を明らかにされ解釈した人

という点から考えると、法然聖人は『選択集』を著されて、念仏1つを選びとられ、民衆に阿弥陀様の救済を広められました。

親鸞聖人の記された正信偈の中には「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人」とあります。

ですので、親鸞聖人が七高僧の法然聖人の選定理由として

①阿弥陀仏の本願に誓われた念仏を明らかにし、浄土門の教えに帰依し生きられた
➁九条兼実の願い出により『選択集』を著され、世の中に仏教を広められた
③比叡山での厳しい修行を雑修雑行と捨てられて、念仏1つを選び取られた。

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