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正信偈の解説と現代語訳

正信偈の意味【専雑執心判浅深 報化二土正弁立】全文現代語訳

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現代語訳

さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く化土にしか往生できないが、念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかに示された。

この度は、正信偈「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

・・・阿弥陀仏の本願に説かれた行ではなく、自力によって他の修行に励むこと。

・・・報土、阿弥陀如来の本願に報いて成就せられた浄土。真実報土ともいう。

・・・化土、報土の中の化土。仏様の智慧を疑うので疑城、胎内のように外界を見ることができないから胎宮とも言われる。真実報土の片隅に位置する。

弁立・・・弁は弁別という、つまりはっきり区別、識別すること。はっきり解き明かすこと。

同じ場所に行くのでも、広かったら迷うよね
お浄土は、必ず出会える場所だから広いけど迷うことはないよ
会いたくない人もいるんだけど

正信偈の原文

専雑執心浅深
せんぞうしゅうしんはんせんじん
報化二土正弁立
ほうけにどしょうべんりゅう

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し】専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり

【現代語訳】さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く化土にしか往生できないが、念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかに示された。

正信偈の分かりやすい解説

専修と雑修

源信僧都は、お釈迦様がご生涯のうちにお説きになった膨大な数のお経(一代教)を、深く学びとられました。そして、仏教の要となる教えを世間に広く示されました。つまり、お釈迦様が説かれた教えは膨大な数ですが、要するに「南無阿弥陀仏」をとなえる念仏の教え以外に凡夫が救われていく道はないことを明らかにされました。そして、源信僧都自ら念仏を称え、世の人々に本願による念仏をいただくように勧められました。

次に「専雑の執心、浅深を判じて」(専雑執心判浅深)とは、「専の執心」は深く、「雑の執心」が浅いことを、きっぱりと判別されたということです。「専」とは、もっぱら阿弥陀仏の名号を称える念仏(専修念仏)です。一方の「雑」とは、念仏のほかにさまざまな行を雑ぜ合わせて修める行(雑行)のことです。

「執心」とは、「執着心」という「こだわりの心」「自力の心」という意味ではなく、ここでは「執持心」ということです。「執り入れて持つ心」ということです。つまり、持ち続ける心をいうことです。

阿弥陀仏の本願にお任せして、一途に「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える他力の信心は深く、自力で自らの努力を頼りにして、さまざまな修行に励んで自らを過信して往生を期待する信心は浅はかであることを示しています。その違いを、はっきりと判別してくださったと、親鸞聖人は源信僧都を褒め称えておられるのです。

日本
源信僧都とは、どんな人なのか

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報土と化土について

「報化二土」とは、「報土」と「化土」という浄土ことです。この2つの浄土を正しく区別して明らかにされました。すべての人を迎え入れたいと願われた阿弥陀仏の本願によって、往く世界を「浄土」というのですが、その「浄土」に、「報土」と「化土」の2種の浄土があるといわれます。

阿弥陀仏の浄土は、またの名を「真実報土」といいます。阿弥陀仏が、自力に執われている行者に思い描かせておられる浄土を「方便化土」といれます。どちらも阿弥陀仏の「浄土」には違いありません。

しかし「方便」は、凡夫を「真実」に近づけるための手段です。自力から離れられないでいる雑心の凡夫を、本願他力を信ずる専心に導き、凡夫が凡夫のまま往生する「報土」に導くために、仮の手段として化現されているのが「化土」といわれるものです。

この説明では、浄土に2種類あることが重要ではなく、我々が浄土に往生するのに、自力ではなく、他力の信心を勧めるために説かれた説明なのです。専心と雑心という、信心に区別があることを明らかにされました。専修念仏が阿弥陀様より届けられているにもかかわらず、自分の経験と力を過信し思い上がって、他力念仏に従わずに、自ら励む雑修に心を向けてしまう愚かさを誡めておられるのです。

阿弥陀仏の本願を深く喜ばれ、お釈迦様の教えを正しく受け取られながら、どうしても自力の心を捨てきれない凡夫のことを思えばこそ、源信僧都が専雑執心の浅い深いを判じられたのでした。

正信偈の出拠

『教行信証』『群疑論』に善導和尚の前の文を引きて、この難を釈して、またみづから助成していはく、〈この『経』の下の文にいはく、《なにをもつてのゆゑに、みな懈慢によりて執心牢固ならず》と。ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至} また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。ゆゑに経の別説、実に相違せざるなり〉と

『教行信証』それ、報を按ずれば如来の願海によりて果成の土を酬報せり、ゆえに報というなり

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