正信偈の意味【凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味】全文現代語訳

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現代語訳

凡夫も聖者も、五逆のものも謗法ほうぼうのものも、みな本願海ほんがんかいに入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように等しく救われる。

この度は、正信偈「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

・・・智慧が浅く煩悩に束縛される凡夫のこと

・・・智慧がすぐれて仏道修行に堪えゆる聖者のこと

・・・五逆のこと。①父を殺し、②母を殺し、③聖者を殺し、④仏身を傷つけ出血させること、⑤教団の和を乱すこと

ほう・・・仏法をそしり、悪口をいう

回入・・・自力心を捨てて、他力信心に回心帰入すること

海に入るとどんな水も同じ塩味になるってことだよね
昔はそうだったけど、最近は環境破壊によって海にも限界があるんだよ
何か別の話になってない!??

正信偈の原文

凡聖逆謗斉回入
ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう
如衆水入海一味
にょしゅしいにゅうかいいちみ

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】凡聖逆謗ひとしく回入すれば衆水、海にいりて一味なるがごとし

【現代語訳】凡夫も聖者しょうじゃも、五逆のものも謗法ほうぼうのものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように等しく救われる。

正信偈の分かりやすい解説

凡聖とは

凡夫と聖者ということです。聖者とは、親鸞聖人のことではありません。親鸞聖人は自らのことを「凡夫」と名乗られました。

凡夫とは、私たちのような存在です。命終わるまで自己中心的な欲望を捨て去ることが出来ない、苦しみ悩む存在です。自己中心的な考えや物事の見方しかできない人は、浄土から最も遠い存在です。本来、浄土に参れるのは清らかで、煩悩が一切ない人だけが参る場所だからです。一方、凡夫はその煩悩によって、苦しみの世界を何度も何度も果てしなく苦しみ続けなければならない存在です。

聖者といえば、龍樹りゅうじゅ菩薩・天親てんじん菩薩という菩薩様が挙げられますが、『正像末和讃』には

正像末和讃

像法ぞうぼうのときの智人ちにんも 自力の諸教しょきょうをさしおきて
時機相応じきそうおうほうなれば 念仏門ねんぶつもんにぞいりたまふ

と説かれ、菩薩といわれるお方でさえも自力の教えではなく、阿弥陀仏の救済(他力)を喜び、この本願念仏の教えにお任せしたとお示しです。

五逆とは

前回では、阿弥陀様は煩悩を断ぜない私を目当てとして涅槃を得させるのであると説明しました。
「凡聖」とは煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」を指します。「凡夫」と「聖者」の違いは、煩悩に振り回れているか、それとも煩悩を滅し尽くしているかに違いがあります。
また「逆謗ぎゃくほう」というのは、「五逆ごぎゃく」「謗法ほうぼう」の2つを指します。

五逆とは、

ポイント

①父を殺すこと
②母を殺すこと
③聖者を殺すこと
④仏のお体を傷つけて血を流させること
⑤教団を分裂させること

謗法とは

仏様やその教えを否定することです。これらの人は、非常に気をつけなければいけません。

無仏むぶつ・・・仏なんていないという考え
無仏法むぶっぽう・・仏教の教えを否定する考え

お経『仏説無量寿むりょうじゅ経』には、「必ず救う!けれども五逆と誹謗ひほう正法しょうぼうのものは除く」と説かれています。浄土往生を願わず、「仏なんていない、浄土なんて存在しない」と謗法ほうぼうする者は、普通なら救済から除かれます。浄土を願わないのですから、願わない者に浄土往生はかないません。しかし教えに背を向ける姿こそ凡夫であり、その救われ難い凡夫を救うと名乗りを上げてくださったのが、阿弥陀様なのです。

曇鸞大師は、「五逆・謗法のものも阿弥陀仏の名号みょうごう(南無阿弥陀仏)を聞けば、その罪が除かれる」と示し、
善導大師は、「仏願力ぶつがんりきによって、五逆十悪の罪が滅し浄土に生まれる事ができる。謗法のものも回心すればみな往生する」と説かれます。

自力の心を捨てて他力信心を得るならば、みな救われるというのが親鸞聖人の教えです。自力によって自らの力を過信し仏を否定し、浄土を否定してきた人生であっても、やがて自分の力ではどうしようもない問題がやってきます。死を前にすると人間の力は何一つ及ばないからです。その事に気づき、自力を捨てて他力に帰依きえされたとき、すでに阿弥陀様の救済の手の中にあり、浄土往生間違いないことだとお喜びになられました。

回入とは

「回入」とは

ポイント

①自力の心をひるがえして他力に帰入すること
②迷いの世界に還来げんらいして衆生を救うこと

とありますが、この度は①の他力帰入きにゅうを指します。自分の思いにこだわり続ける心(我執がしゅう)をひるがえして、阿弥陀仏にお任せをするということです。自力→他力が回入えにゅうということです。

凡夫であろうと聖者であろうと、たとえ五逆の罪を犯す人であろうと仏教をそしるような人であろうと、一人の力(資質)では限界があり、悟りの境地に到れません。私達では「涅槃」という勝れた境地(清らかな世界)にいたることはできないのです。

しかし、凡夫であろうと聖者であろうと、五逆であろうと謗法ほうぼうであろうと、自力の心(自分の思いにこだわり続ける心)をひるがえして、阿弥陀仏の願いに身を任せることが、そのまま救われていくのですよと親鸞聖人は教えておられます。

衆水海に入りて

それは川の流れのように、山に落ちた雨水も畑に落ちた雨水も、汚水の水も工場の水であっても、やがて海に注ぎ込めばみな同じ塩味になるようなものだと譬えられています。綺麗な水も汚れた水もあの大きな海に包み込まれると、その差異は一切生じないということです。家の近くには、3本の川が流れています。それぞれ名前のある川ですが、やがて海に入ると皆名前はなくなり「海」といいます。

私たち人間もそれぞれ名前があり、人生がみな違うように、生き方・考え方・環境に違いがあります。国や地域が違えば善し悪しの違いもあります。けれどもどのような人であろうとも、阿弥陀仏の願いの前では何の違いもないと教えられています。

大宝海
海に例えられる功徳大宝海とは

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よくよく理解すること

ここで注意しておきたい事は造悪ぞうあく無碍むげです。悪を作ることは一切救いのさまたげにならなのだから、悪い事をしても良い。阿弥陀様は悪い事をした人の方が心配をしてくれて、さらに救いの目当てとなると誤った解釈をして、欲望のままにワガママに過ごされた人も過去にはいるようです。親鸞聖人も、その有様を聞いた時に大変困ったことでしょう。何度も何度もお手紙などやりとりをして、そうじゃないよ、悪い事を勧めているんじゃないよと教えられています。

譬えるなら空中ブランコのセーフティーネットのようなものです。どんな人も地面に落ちて怪我をさせないセーフティーネットは、素晴らしいネットであるからと言って落ちるために準備されたものではありません。ネットは落ちるためにあるのではなく、精一杯演技ができるように安心して過ごせるように用意されたものです。その本質の意味を間違えてはいけません。

正信偈の出拠【参考文】

『銘文』「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。

『一念多念文意』「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

『論註』一経(大経)には二種の重罪を具するをもつてなり。一には五逆、二には誹謗正法なり。この二種の罪をもつてのゆゑに、ゆゑに往生を得ず。一経(観経)にはただ十悪・五逆等の罪を作るとのたまひて、正法を誹謗すとのたまはず。正法を謗ぜざるをもつてのゆゑに、このゆゑに生ずることを得。
問ひていはく、たとひ一人ありて、五逆罪を具すれども正法を誹謗せざれば、『経』(観経)に生ずることを得と許す。また一人ありて、ただ正法を誹謗して五逆の諸罪なし。往生を願ぜば生ずることを得やいなや。答へていはく、ただ正法を誹謗せしめば、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得ず。

『論註』もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

『散善義』この義仰ぎて抑止門のなかにつきて解せん。四十八願のなかの〔第十八願の〕ごとき、謗法と五逆とを除くことは、しかるにこの二業その障極重なり。衆生もし造ればただちに阿鼻に入り、歴劫周&M011102;して出づべきに由なし。ただ如来それこの二の過を造ることを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらず。また下品下生のなかに、五逆を取りて謗法を除くは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪はいまだ為らず。また止めて「もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得ず」とのたまふ。これは未造業につきて解す。もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。

『法事讃』仏願力をもつて五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提と回心してみな往くによる。

『銘文』「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

『本典』一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

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