正信偈の意味【譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇】全文現代語訳

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現代語訳

たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るく闇がないと同じである。

この度は、正信偈「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

日光・・・阿弥陀様の光明のこと。

無闇・・・闇がないこと、障りなきこと。

観光で暗闇の中をあるいて、何かを触るっていうアトラクションに行ったことがあるわ
暗闇の中で、あるモノに触れたら極楽っていう遊びだね。浄土真宗は阿弥陀様が見つけ抱き取ってくれるよ
それじゃ浄土真宗は鬼ごっこみたいだね

正信偈の原文

譬如日光覆雲霧
ひにょにっこうふうんむ
雲霧之下明無闇
うんむしげみょうむあん

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】たとえば日光の雲霧におおわれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし

【現代語訳】たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るく闇がないと同じである

正信偈の分かりやすい解説

光と雲霧の関係

前回は「摂取心光常照護」(摂取の心光、常に照護したまう)とありました。私を救いの目当てのど真ん中で救おうとしてくださる阿弥陀仏の光は、いつも、どこでも護っていてくださっているということでした。
阿弥陀仏の光に照護されているので、その光によって、闇(無明・無知)はすでに破り尽くされています。「已能雖破無明闇」(すでによく無明の闇を破すといえども)とある通りです。無明の闇を破り、「雲霧に覆われても闇なきがごとし」と次に続きます。
しかし、だからといって煩悩が無くなった訳ではありません。その事を「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり)と親鸞聖人は記されています。

雲霧の下、闇なきがごとし

しかし、その後には「たとえ日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇なきがごとし」とあります。日光が雲や霧に覆われていても、雲や霧の下は暗闇ではなく、私たちのところに光は届いています。太陽そのもの光が届かない夜の暗闇とは違うのです。
私たちは貪りや憎しみ、愚痴などの煩悩よって「真実信心」を覆ってしまっています。しかし阿弥陀様のはたらきが届いていないのかというと、そうではありません。雲や霧が覆っていても、雲や霧の下にも明るさは届いているのです。
私達は、取り除き難い(自分の力では取り除くことが出来ない)煩悩にまみれながら、「真実信心」に気付かされます。それは煩悩が無くなって気づくのではなく、煩悩があるままにその姿に気づいていけるのです。そして、その阿弥陀様のはたらきに出会うのに、決して煩悩が妨げにはならないということです。

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