正信偈の意味【成等覚証大涅槃 必至滅度願成就】全文現代語訳

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現代語訳

正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことができるのは、必至滅度の願(第11願)が成就されたことによる。

この度は、正信偈「成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

等覚・・・等正覚ともいう。次生に仏の地位が確約されていることから、弥勒菩薩の位とも等しいとも言われる。

涅槃・・・昔のインドの言葉、サンスクリット語で「ニルヴァーナ」の音写した言葉。すべての煩悩を滅したさとりの境地。貪り怒り迷いの心を滅し、生死の苦を超えた境地。

必至滅度の願・・・第11願のこと。浄土往生した者に必ず仏のさとりを得させるという願い。

成仏・・・仏が、菩薩の因位に誓われた願い事のできあがったすがた。願いが叶ったこと。

涅槃って、お釈迦様の涅槃会や亡くなる時に使うね
そうだね。けれども私達苦しみ悩む凡夫は死んだからと言って仏になる確証はどこにもないよ
だから、阿弥陀様のお智慧を借りる必要があるんだね

正信偈の原文

成等覚証大涅槃
じょうとうがくしょうだいねはん
必至滅度願成就
ひっしめつどがんじょうじゅ

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】等覚を成り大涅槃を証することは 必至滅度の願(第11願)成就なり

【現代語訳】正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことができるのは、必至滅度の願(第11願)が成就されたことによる

正信偈の分かりやすい解説

等覚とは

「弥陀章」の結びとなる部分が「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」という四句です。今回はその後半の二句について説明します。

「等覚」とは、さとりが等しいという事です。内容的には仏の悟りと等しく、仏になる直前の者という事です。「等」とは「等しい」ことであり、普遍であることを表し、「覚」とは「正覚」を表し、仏の完全な覚りのことです。

『和讃』には

和讃

念仏往生の願により 等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて大般涅槃をさとるべし

悟り(覚り)とは、自分のためだけの「悟り」というものではなく、他人を導き、すべての人を救うことを目的とした、人類のための悟りです。

「等覚」には2つに意味があり、1つには仏の悟りのことで平等の正覚というものと、もう1つには菩薩の最高位を表します。「等しい」とは、同じという意味でも使われますが、ここでは後者の「ほとんど同じ」という意味で理解します。その違いは、菩薩は仏とは違うからであり、仏は自己と他者の区別がありません。しかし菩薩は自己と他者の違いがあり、悟った者とそうでないものの区別があるという違いがあります。そもそも、「仏の悟り」と「菩薩の最高位」が同じなら、それは菩薩ではなく仏さまになります。なぜ菩薩の最高位を作られたのか、その理由を考えると2つには違いがあり、その最も等しい立場を「等覚」とお経に表現されているのです。

そして、私たちは生きている限り苦しみ悩む凡夫でありながら、もうすでに「等覚」であるとお示しになられています。凡夫の力では決して登ることができない菩薩の最高位に、「阿弥陀様の力」によって、私たちはならせていただきます。そして、この命終えた時に、本当の悟り、仏さまと同じ悟りとなるのです。その時に、等覚から仏そのものになり、自分と他人の区別のない清らかな世界に生まれゆくのです。

涅槃とは

「大涅槃」の「涅槃」は、すぐれた完全なさとりの境地という事です。苦しみ悩む私達は智慧がないので、煩悩に振り回されて苦しみ悩みます。一方の悟り(涅槃)とは、燃え盛る煩悩の炎を消しつくした「智慧の完成した悟り」を表します。「涅槃」は、私たちが阿弥陀仏の救済によって抱き取られ、仏として生まれていく「世界」を指しています。つまり正信偈の「成等覚証大涅槃」とは、「仏になり、往生という大涅槃というこの上ない悟りを開けるのは」という意味になります。

「等覚を成り大涅槃を証する」ということは、やがて私たちが往生という大涅槃にいたるということです。その理由は、『仏説無量寿経』の第11願に「必至滅度の願」が述べられているからです。それを親鸞聖人は「必至滅度願成就」(必至滅度の願成就せり)と記されているのです。
「滅度=涅槃」ということなので、「必ず滅度に至る」ということは「必ず涅槃に至る」ということです。結局それは「必ず浄土に往生させる」という阿弥陀様のはたらきのことなのです。

阿弥陀仏の本願によって、名号「南無阿弥陀仏」こそが私たちを往生にまさしく決定するはたらきをもつのです。それは第18の「至心信楽の願」が成就し、第11の「必至滅度の願」が誓われているからです。

親鸞聖人は、成等覚とは正定聚の位につくことであり、大涅槃と証するとは仏になることであると使い分けられています。生きている間は、苦しみ悩みから抜け出すことは出来ない凡夫であるが、すでに阿弥陀様に護られた存在で、極楽浄土に行けることが間違いない存在だから「等覚」と表し、やがて命終えて行くと大涅槃(自分と他人の区別がない清らかな世界)という仏になるということです。

菩薩の52の位

ここからは難しい言葉ばかりですが、菩薩の52の位について知りたい方は読んでください。
「等覚を成り」という言葉について、菩薩とは何なのかを少し「菩薩の52の階位」について触れて説明します。

菩薩とは、自ら悟りを求め、他を教化・救済する者のことです。聖士・超士・正士・大士・仏子・法王子など多くの別名があります。菩薩が初めて菩提心を発してから修行の功を積み重ね仏果(仏になる)に至るまでの階程について、一般的に52の位がある。

大きく分けて、上から妙覚・等覚・十地・十廻向・十行・十住・十信があり、合わせて52あります。

ポイント

①妙覚

②等覚

③十地とは上位から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。

④十廻向とは、入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10位。

⑤十行とは真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の10位。

⑥十住とは灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心の10位。

⑦十信とは願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。

これが52位の名称ですが分類するならば、

外凡・・・十信
内凡・・・十住、十行、十廻向
十聖・・・十地

また六種性というものに

妙覚・・・妙覚性
等覚・・・等覚性
十地・・・聖種性
十廻向・・道種性
十行・・・性種性
十住・・・習種性

という。

この中で、有名な弥勒菩薩は51段目の境地で、親鸞聖人は他力の念仏者を弥勒菩薩と同じ位であるとお示しになります。弥勒菩薩とは、次に必ず仏になられるお方ということで、兜率天で今現に修行をされて、最後の段階であると言われます。その弥勒菩薩と、苦しみ悩む私たち凡夫が同じ位であるはずがないと考えるのが一般的ですが、他力真宗の念仏者は、阿弥陀様のはたらきによって浄土に参らせていただくのだから、かならず浄土に生まれ悟りを開く弥勒菩薩と同じ立場であるということで、「私たちは弥勒菩薩と等しい」と述べられています。

なお、七高僧の中ではインドの龍樹、天親のことを「菩薩」という。また曇鸞大師というが、梁(という当時の中国)の王様からは鸞菩薩と言われ、親鸞聖人も傾倒していることから、親鸞聖人の書籍の中では菩薩様であるかのように記されている。

正信偈の出拠【参考文】

『銘文』「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品 一六)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり。これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。「証大涅槃」と申すは、必至滅度の願(第十一願)成就のゆゑにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「滅度」と申すは、大涅槃なり。

『教行信証』まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。

『教行信証』つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば、弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

『大経』(11) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。

『如来会』もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り大涅槃を証せずは、菩提を取らじ

『ご消息』真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す

『正像末和讃』正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は
清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん

『一念多念文意』「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

『ご消息』弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。

『ご消息』まことの信心をえたる人は、すでに仏に成らせたまふべき御身となりておはしますゆゑに、「如来とひとしき人」と『経』(華厳経・入法界品)に説かれ候ふなり。弥勒はいまだ仏に成りたまはねども、このたびかならずかならず仏に成りたまふべきによりて、弥勒をばすでに弥勒仏と申し候ふなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしと仰せられて候ふなり。

『教行信証』金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

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