現代語訳
本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を廻向される。
この度は、正信偈「開入本願大智海 行者正受金剛心」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
開入・・・難しいことを明らかに開き示し、悟りの道へと導き入れること
大智海・・・阿弥陀さまの智慧のはかりなさを海に譬えたもの
金剛心・・・他力の信心のこと、けっして壊れないことを金剛石(ダイヤモンド)というように金剛の心と表された。
慶喜・・・慶とは信心をえてよろこぶ心。喜とは心の中に常によろこぶのたえないこと
一念・・・信心を獲得した時、つまり阿弥陀仏の本願の由来を聞いた最初の時。
相応後・・・他力の信心をいただいた時
正信偈の原文
開入本願大智海
かいにゅほんがんだいちかい
行者正受金剛心
ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん
正信偈の書き下し文
【書き下し】本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心を受けしめ
【現代語訳】本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を廻向される。
正信偈の分かりやすい解説
大智海とは
七高僧の第5番目の善導大師についての段落です。
親鸞聖人は、正信偈の中で善導大師の教えを受けて「開入本願大智海 行者正受金剛心」(本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ)と記されています。
「本願の大智海」とは、阿弥陀仏の本願のはたらきのことで、海のように広く深い仏さまの智慧を表します。『正信偈』には、他にも「本願海」という言葉があり、「本願海」と「大智海」は、慈悲と智慧の関係です。阿弥陀様のはたらきを慈悲と智慧で表すので、親鸞聖人は海の譬えでも「本願海」と「大智海」と表されました。
また、正信偈の中には「群生海」という言葉もあります。本願の海、大智の海は、この苦しみ悩む世界に生きる私たち群生(人々)の海であります。自らの力で苦しみ悩みを抜け出すことが出来ない凡夫だからこそ、本願の海(慈悲)、大智の海(智慧)でしか救われない群生(凡夫)の海なのです。
海の譬え
本願海・・・阿弥陀様の慈悲を表す。包み込む
大智海・・・阿弥陀様の智慧を表す。人を選ばず迎え入れる
群生海・・・すべての苦しみ悩む人を表す。また海がそのまま阿弥陀様の受け皿となっている
海は、どんな場所から流れ出る川も水も、やがて海に入ればみな同じ塩の一味となります。そして、海では様々な生きものを育み養うところです。
親鸞聖人のご和讃に、
和讃
名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり
現代語訳
名号という不思議な海水には、五濁罪の者と教えを謗る者という死骸もとどまらない。あらゆる善悪どんな人であってもすべての河川もおまかせすれば、功徳という潮と1つの味になるのである
と記されています。
善導大師とは、どんな人だったのか
善導大師について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、お経の解釈について同時代の僧侶の解釈の誤りを指摘し阿弥陀様のお心を広められた方です。 お経では、ここから雰囲気が変わるよね 七高僧 ...
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開入について
「開入」とは、開示帰入の省略で、「見失っているものが、開かれて示され、それに立ち戻らされて迎え入れられる」ということです。「定善や散善、五逆や十悪の人が、開き示された本願に立ち戻らされて、迎え入れられる」という意味になります。
「行者」とは、すなわち、定善・散善・五逆・十悪などすべての人のことです。「正受金剛心」(正しく金剛心を受けしめ)とあるように、間違いなく金剛(ダイヤモンドのように堅い)信心を私たちは受け取る事ができるのです。
「金剛」とは、ダイアモンドのことで、もっとも硬いものを喩えています。自分の思いによっておこす自力の信心は、脆く壊れやすいものです。しかし、阿弥陀仏の本願の力によって届けられている他力の信心は、金剛のように硬く、壊れることがありません。
つまり以上をまとめると「開入本願大智海」は、阿弥陀様のはたらきが光明の光や南無阿弥陀仏の名号となって、原因と結果を引き起こす縁となって私たちに届けられ、定善散善という善行を修める人であっても、また五逆の罪をつくるものであっても、阿弥陀様のはたらきに迎え入れられることによって、すべての人が海の塩味の一味なるがごとく、必ずお浄土に迎えられるのです。
正信偈の出拠
『礼讃』弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。
『観経疏』妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け、相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる。
『教行信証』金剛不壊の真心
『観経疏』苦悩の娑婆、輒然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらざるよりは、永く生死の元を絶たんや。
『観経疏』この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。
『観経疏』「金剛」といふはすなはちこれ無漏の体なり。
『教行信証』正しく身心に当たって決定して、
『教行信証』今、二尊の意に信順して