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正信偈の解説と現代語訳

正信偈の意味【能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃】全文現代語訳

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現代語訳

信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま浄土でさとりを得る

この度は、正信偈「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

一念いちねん・・・信の一念のことで、信心を頂いた瞬間

喜愛心きあいしん・・・歓喜かんぎ愛楽あいぎょうの心のこと、信心と同じ

煩悩・・・心身を悩ませ、煩わせること。身を煩わし、心を悩ますこと。欲望煩悩

得涅槃とくねはん・・・涅槃に至ることが定まった位。正定聚しょうじょうじゅのこと

煩悩って大晦日に除夜の鐘で108の煩悩を無くすよね
除夜の鐘をついて、欲望という煩悩は無くなった??
全然、そのままなんですけど

正信偈の原文

能発一念喜愛心
のうほついちねんきあいしん
不断煩悩得涅槃
ふだんぼんのうとくねはん

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃をうるなり

【現代語訳】信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま浄土でさとりを得る

正信偈の分かりやすい解説

信心と歓喜の関係

「よく一念喜愛の心をほっすれば」とは、教えを信じ喜びの心を発すればという事です。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」とは、煩悩をなくさないままに涅槃の境地にいたることができると親鸞聖人が著されました。

能発のうほつ」とは「よく発す」ということです。文字のまま読むと「発すことができる」という意味ですが、私達凡夫が救われたという喜び心を自発的に起こせるでしょうか。起こせません。歎異抄たんにしょう第9条には、親鸞聖人と弟子の唯円ゆいえんのやりとりが述べられています。

唯円が質問:)念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうか?

親鸞聖人がお答えになる→)この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房ゆいえんぼうよ、あなたも同じ心持ちだったのですね。よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫を必ず救済すると仰せになっている

と、このように述べられています。

『仏説無量寿経』18願成就文には、

『仏説無量寿経』

無量寿仏むりょうじゅぶつの名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転ふたいてんの位に至るのである。ただし、五逆ごぎゃくの罪を犯したり、仏の教えをそしるものだけは除かれる


と説かれている。阿弥陀仏のはたらきによって私どもに信心が生じ、その信心によって歓喜の心が起こされる。しかし、喜び心が表出する(現れ出る)ことが「信心を頂いた姿」とはおっしゃっていません。阿弥陀様のはたらきによって名号みょうごうは間違いなく届いているので私の心には信心としてある。だが喜び心として、「このように現れ出る」ことに正解・不正解ということはないのです。

「よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為しょいなり。」

「信心歓喜」と成就文じょうじゅもんには説かれています。言葉では「信じ喜び」と同時同等に読めますが、「歓喜」=「よろこび心」もまた阿弥陀様のはたらきによるもので、「私が喜んでいる!」という「我」を主張するよりも、信心と歓喜の関係は「阿弥陀様のお心を聞かせて頂く中で、私はいつのまにか教え(救済)を喜ぶ身にお育て頂いた」というように、浄土真宗はこのようにご信心を解釈します。

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煩悩とは

「煩悩」というのは、身を煩わせ心を悩ますものです。私達の心には108の煩悩があると言われていますが、それだけで収まる煩悩ではありません。無限に湧いてくる欲望や煩悩は、108以上ありますが、それらを3つに分類したものを根本的煩悩といい「三毒さんどくの煩悩」とも言います。それは、貪欲とんよく(欲望)と瞋恚しんに(いかり・憎しみ)と、愚痴ぐち(道理に無知であること)の3つです。

ちなみに108の煩悩とは、一説によると四苦八苦という仏教の言葉「生老病死」を人間の持つ苦しみと言われますが、その四苦八苦を数字に置き換えると、「4✕9」と「8✕9」これを足すと108になります。大晦日に108つの除夜の鐘を打ちますが、なぜ108回なのかというと、この四苦八苦を滅すること、つまり煩悩を打ち破ることが由来と言われます。

そもそも「煩悩」とは何でしょうか。自分の利益のためになると思い込み、自分の思い通りにしようとしていること、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっている、これが煩悩であるとお釈迦様は教えられました。

お釈迦様の教えられた仏道は、断惑だんわく証理しょうりの道と言われ、煩悩(惑)を断じて涅槃を得ることが仏道です。四弘誓願にも

四弘誓願

衆生無辺誓願度(しゅじょう むへん  せいがん ど)
煩悩無量誓願断(ぼんのう  むりょう せいがん だん)
法門無尽誓願学(ほうもん  むじん  せいがん がく)
仏道無上誓願成(ぶつどう  むじょう せいがん じょう)

このように誓願せいがんと4つ続くものなので、四弘誓願しぐせいがんと呼ばれています。その第2番目には、煩悩を断じた先に、涅槃が待っているということです。苦しみから解き放たれてすべての煩悩が取り除かれた状態、心穏やかな状態を「涅槃ねはん」といいます。「涅槃」は煩悩を滅した状態を意味しますが、正信偈の「不断煩悩得涅槃」の「不断煩悩」=「得涅槃」とは矛盾するわけではありません。煩悩を断ずることのできない自分であるからこそ、煩悩は阿弥陀様によって断じられるのだという意味です。「本願」という阿弥陀様のはたらきは私達に向けられていて、阿弥陀様は私に「涅槃」を得させてもらうのである親鸞聖人は「正信偈」の中でお示しくださったのです。

正信偈の出拠【参考文】

『銘文』「能発一念喜愛心」といふは、「能」はよくといふ。「発」はおこすといふ、ひらくといふ。「一念喜愛心」は一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生るとしるべし。慶喜といふは、信をえてのちよろこぶこころをいふなり。「不断煩悩得涅槃」といふは、「不断煩悩」は煩悩をたちすてずしてといふ。「得涅槃」と申すは無上大涅槃をさとるをうるとしるべし。

『教行信証』「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。

『教行信証』「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。

『銘文』慶喜といふは、信をえてのちよろこぶこころをいふなり。

『一念多念文意』「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり。

『一念多念文意』「歓喜」はうべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。

『論註』これいかんが不思議なる。凡夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや。

『ご消息』まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身口意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

『安楽集』もし人菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障ことごとくみな断滅す。

『教行信証』悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

『一念多念文意』真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。

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