現代語訳
如来の本願にかなうことができたそのときに、韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、浄土に往生してただちにさとりを開くと述べられた。
この度は、正信偈「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
慶喜・・・慶とは信心を得てよろこぶ心。喜とは心の中に常によろこびのたえないこと
一念・・・信心を獲得したそのはじめ、つまり阿弥陀仏の本願のいわれを聞いた最初のとき。
相応後・・・他力の信心を頂いたその時のこと
韋提・・・韋提希夫人の略。お釈迦様ご在世の頃、インドにあったマガダ国の頻婆娑羅王の夫人で王子阿闍世によって王宮の奥深いところに幽閉された。その悲しみと絶望の中から、霊鷲山で説法中のお釈迦様を念じて教えを請うた。
三忍・・・忍とは、ものをはっきりと確かめて決め込むこと。無生法忍ともいう。
法性・・・法の法たる性という意味。一切の存在の真実常住なる本性を指す。真如、実如、法界ともいう。
常楽・・・涅槃の4つの徳の1つに常楽我浄のこと。常住にして移り変わりなく、安らかで楽しみが満ち足り、自在で他に縛られず、煩悩のけがれがないこと。
正信偈の原文
慶喜一念相応後
きょうきいちねんそうおうご
与韋提等獲三忍
よいだいとうぎゃくさんにん
即証法性之常楽
そくしょうほうしょうしじょうらく
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し】慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲て、すなはち法性の常楽を証せしむといへり
【現代語訳】如来の本願にかなうことができたそのときに、韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、浄土に往生してただちにさとりを開くと述べられた。
正信偈の分かりやすい解説
前回の復習
この度は七高僧の第5番目の善導大師の説明をします。
自力の修行とは、自らの力を頼りに心を静め、浄土の様子を思い浮かべる修行があります(定善)。また、散乱した心でありながら、努めて善を修め、浄土を求める修行があります(散善)。さらにまた、五逆や十悪という悪を犯す者でも浄土に行けると『仏説観無量寿経』が示されています。
しかし、様々な修行や条件をお経の中で示しながらも、阿弥陀様の願いは「すべての人」を救うことであり、その御心は私たち凡夫に条件など一切が必要ありません。すべての人を救いたいと願われた阿弥陀様の智慧の光明の輝き(はたらき)が、凡夫である私たちに真実の信心に目覚める「縁」となり、阿弥陀仏の大いなる導きによって、すべての者に等しく差し向けられている「南無阿弥陀仏」という名号が、真実の信心の「因」となると記されています。それが前回説明した「光明名号顕因縁ということです。
例え自力の行に励んだ人であっても、仏教の道ではなくどのような方向に向かってしまった人でも、本願の智慧のはたらきに呼び戻され(開入本願大智海)、金剛のように硬い他力の信心を受け取ることができる(行者正受金剛心)と記されています。
善導大師とは、どんな人だったのか
善導大師について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、お経の解釈について同時代の僧侶の解釈の誤りを指摘し阿弥陀様のお心を広められた方です。 お経では、ここから雰囲気が変わるよね 七高僧 ...
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慶喜とは
この度は、「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍」(慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲)から説明します。
阿弥陀様の真実の信心に気づいた人は、一念の喜び心が起こり、本願をおこされた阿弥陀仏のお心に合致(相応)するならば、その人は、『仏説観無量寿経』に説かれている韋提希夫人と同じ「三忍」を得ると示されます。
『仏説無量寿経』に、
仏説無量寿経
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん
と説かれています。ここに「慶喜の一念」という言葉が出てきます。「南無阿弥陀仏」に出会い、阿弥陀様の本願に出遇った人の喜びです。
信心を喜べる人は、いったいどんな人であろうかいうと、「韋提希夫人のようになる」と示されています。
『仏説観無量寿経』に韋提希夫人が登場します。他にも夫である頻婆娑羅王が、自分が産み育ててきた王子の阿闍世が登場します。ある時、王子の阿闍世が、王の頻婆娑羅王を牢屋に閉じ込めて、食事も飲み物も与えずに殺そうとします。王を助けようとした韋提希夫人も宮殿の奥深くに幽閉されます。彼女は、苦悩の中から釈尊に教えを請います。その求めに応じて韋提希夫人が悟りをひらけるようにと説かれたのが『仏説観無量寿経』でした。
三忍とは
このお経の中で、韋提希夫人はお釈迦様の説かれた教えによって、阿弥陀仏と観音・勢至の二菩薩を拝み、歓喜の心を生じ、「無生法忍」という悟りを得たと記されています。
「無生法忍」とは、善導大師は3つに分けて「三忍」と説明されます。「忍」とは「認める心」という意味です。
「三忍」は、喜忍・悟忍・信忍の3つです。
三忍とは
喜忍は、信心によって起こる喜び心。
悟忍は、智慧の光明によって気付かされる心。
信忍は、本願を疑うことなく信ずる心です。
そして、この「三忍」が、一念の信心のなかに同時にはたらくとというのです。韋提希夫人と同じように、阿弥陀仏の本願に出会い気付かされ、信心を喜ぶような身になるということです。それを「三忍を獲」といいます。
次に「即証法性之常楽」(すなわち法性の常楽を証せしむ)とは、ただちに常に変わることのない、究極の安楽(浄土)に生まれていくに間違いがないと示されています。
「常」とは、常に変わらないことです。「楽」とは、私たちの認識する苦に対する楽ではなくて、私たちが認識する苦と楽をともに超えた、凡夫にはわからない、究極の安楽ということです。
正信偈の出拠
『礼讃』前念命終 後念即生
『愚禿鈔』本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文]即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。また「必定の菩薩と名づくるなり」
『観経疏』これ阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼前に現ず、なんぞ踊躍に勝へん。この喜によるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づけ、また悟忍と名づけ、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談じていまだ得処を標せず、夫人等をして心にこの益を希はしめんと欲す。勇猛専精にして心に〔仏を〕想ひて見る時、まさに忍を悟るべし。
『観経疏』この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。
『二門偈』安楽土に到れば、かならず自然に、すなはち法性の常楽を証せしむとのたまへり。