正信偈の意味【釈迦如来楞伽山〜為衆告命南天竺】全文現代語訳

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現代語訳

釈尊は楞伽山で大衆に、南インドに龍樹菩薩が現れて有無の邪見をすべて打ち破り。

この度は、正信偈「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

楞伽山・・・辞書には「南海の島の山、実在は不明」「ランカー(スリランカ)の山」

告命・・・公式に告げるという意味の尊称

天竺・・・古来より中国が使ったインドの呼び方。

龍樹・・・お釈迦様より800年後、南インドにお生まれになる。

人は死んだら終わりなの?だって大人がみんな言ってるよ
「無の見」と言って龍樹菩薩が否定してるよ。そもそもみんなって誰だろう?
確かにお坊さんたちは少なくとも死んだら終わりとは言わないね

正信偈の原文

釈迦如来楞伽山
しゃかにょらいりょうがせん
為衆告命南天竺
いしゅうごうみょうなんてんじく
龍樹大士出於世
りゅうじゅだいじしゅっとせ
悉能摧破有無見
しつのうざいはうむけん

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】釈迦如来、楞伽山にして衆のために告命したまはく、南天竺(南印度)に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見を摧破せん

【現代語訳】釈尊は楞伽山で大衆に、南インドに龍樹菩薩が現れて有無の邪見をすべて打ち破り

正信偈を分かりやすく解説

楞伽経とは

今回から正信偈の第3段落「依釈段」の「龍樹章」に入ります。七高僧の龍樹大士について述べてあります。
「釈迦如来」は、お釈迦様のことです。釈迦牟尼仏も同じです。

お釈迦様は、『楞伽経』というお経をお説きになりました。「楞伽山」(セイロン島、今のスリランカにある)という所でお説きになったお経とされているものです。『楞伽経』によるとお釈迦様は、そこで「大慧」という名の菩薩をはじめ、多くの人びとに向かって教えを説く中で、予言をされました。

龍樹菩薩とは

その予告とは、ずっと後の世に南天竺(南インド)に、龍樹という名の菩薩が出生し、「有無の見を破る」というものでした。「有無の見」とは、ものごとを実体として有るという見解また肯定する考え方(有の見)と、ものごとには実態がなく虚無として否定する考え方(無の見)です。龍樹菩薩はその両方の考え方を一挙に打ち砕くであろうと予言されています。

「大士」とは「菩薩」のことです。ともにお釈迦様が教えられた真実を顕かにしようとしておられる方、自ら仏果を求め、他を衆生を教化する者という意味になります。

龍樹菩薩は、西暦150年ごろから250年ごろにかけて、南インドで活躍されたと残されていますが、くわしいことは分かっていません。『中論』や『大智度論』など著作の中でお釈迦様の教えを解釈し、その根本を明らかにされています。後に中国や日本に仏教が伝わり「八宗の祖師」と言って龍樹菩薩を崇めてきました。八宗というのは、八つの宗教ということではなく、仏教のあらゆる宗旨ということです。お釈迦様以後に出られた最高の祖師ということです。

インド
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有無の見

お釈迦様の予言によると、その龍樹菩薩は正信偈の中に「悉能摧破有無見」(ことごとく、よく有無の見を摧破せん)とあるように、「有の見」「無の見」にこだわる邪見を打ち破るであろうということでした。

「有の見」とは「常見」とも言い、ものごとを実体として有るという見解また肯定する考え方であり、ものの実在に固執する見解です。一方の「無の見」とは「断見」とも言い、ものごとを実態がないまた虚無として否定する見方です。龍樹菩薩はこの両方の見方ではなく、事実を事実の通りに受け取ることが大切であると教えておられます。

代表的な例として死後に、霊魂のようなものが実在し続けると考えるのが「有見」です。それは凡夫である私達が「有る」と考え固執しているだけで、「有る」という見方に振り回されているという事です。

それとは反対に、死後には無に帰するのだと考えるのが「無見」です。これも凡夫がそのように勝手に思い込んでいるだけであって、事実とは関係がないことなのです。死んだら終わり、「無」になるという考え方は、今の世の中では通説とされているようですが、この考えを龍樹菩薩は「無の見」として否定しています。

いずれも、凡夫が自分の頭の中で理解できる範疇で物事を考え、イメージしているだけで、事実そのものとはまったく関係がないといいのです。
私たち凡夫は、限られた知識や経験にもとづいて、自分本位にものごとを判断します。「実在する」とか「実在しない」とかいう考え方や固執また自分勝手に思い込んでいる、そのような「有無の見方」から、まずは離れる必要があると龍樹菩薩は教えられました。

正信偈の出拠

『雑阿含経』もし先来より我あらばすなわち常見なり。今において断滅せばしなわちこれ断見なり。如来は二辺を離れて中に処して説法す。

『中論』不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出にして、よくこの因縁を説き、よくもろもろの戯論を滅す。

『教行信証』心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。

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