現代語訳
煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことができる。
この度は、正信偈「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
惑染・・・惑とは煩悩のこと。染とは汚れ。ともに煩悩のことで、人々の心を惑わし、善心を汚すことにより惑染といわれる。
証知・・・さとり知ること
生死・・・迷いの世界を流転する様。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界の6つの世界を巡ることは煩悩が原因で流転する。生死とは、仏教では「しょうじ」と読む。苦しみ迷いの世界。
正信偈の原文
惑染凡夫信心発
わくぜんぼんぶしんじんぽう
証知生死即涅槃
しょうちしょうじそくねはん
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ
【現代語訳】煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことができる。
正信偈の分かりやすい解説
前回のおさらい
凡夫である私たちがお浄土に行けること(往相)ができ、迷いのこの世界に帰ってきて大切な人を導くこと(還相)ができるのも、阿弥陀仏のおかげであって、凡夫の自力によるものではなくて、他力これ1つであると親鸞聖人は曇鸞大師の言葉を借りて説明されています。
凡夫である私たちが必ず浄土に往生して仏になれるのは、他力を信じる「信心」ただ1つであると示しくださっています。その「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心です。これが浄土真宗の特徴であり、すべての人々が救われる唯一絶対の道です。
曇鸞大士とは、どんな人だったのか
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惑染とは
その上で親鸞聖人は「惑染の凡夫、信心発すれば」(惑染凡夫信心発)と正信偈には記されています。
「惑染」の惑も染も煩悩ということです。「惑う」というように、私たちは真実が分からず道理に迷い、また心が純粋でなく嘘や騙すことで心が汚染されているというのです。
そんな私たち「惑染の凡夫」でも、「信心発すれば」とある通り、信心さえあれば大丈夫というのです。「信心」は凡夫自らが起こすものではなく、阿弥陀仏の本願力によって、凡夫の身の上に起こることを信心といいます。「惑染の凡夫」に「信心が起これば」、曇鸞大師は「生死即涅槃なりと証知せしむ」(証知生死即涅槃)とあります。
生死とは
「生死」とは、「せいし」とは言わず仏教では「しょうじ」と読みます。生死とは、「迷い」ということです。それは私たちが煩悩に振り回されているとも気づかずに苦悩している状態だからです。そして「涅槃」とは、その逆で迷いがない煩悩が滅した清らかな状態のことです。この2つのことが「即」といい「すなわち」「すぐに」という言葉で表されます。
即とは
ここで「即」という言葉について考えてみたいと思います。「生死即涅槃」とは、「生死がそのまま涅槃である」というので、「生死=涅槃」となり、「迷い=清らか」また「煩悩がある状態=煩悩が滅した状態」というように、互いに矛盾し合う2つのことが、そのまま1つになるというのです。
この考え方は、経典によく説かれています。「涅槃」は「悟り」という意味なので、迷いのまま悟りが得られるということです。他にも「正信偈」には、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(不断煩悩得涅槃)という言葉があります。
これらは矛盾していません。阿弥陀様の救済は、煩悩を滅することが出来ない私を目当てとした救いだからこそ、煩悩がある(私の)ところにこそ、阿弥陀様の救いがあり、私はそのままで、煩悩を断たずに悟りを得るということです。迷い(生死)がある私が、そのまま阿弥陀様の救いの目当て(涅槃)だったのです。
「証知」の「証」は、「あきらかにする」「はっきりさせる」という意味で、曇鸞大師のお書物に出会い、阿弥陀仏の他力に帰依された親鸞聖人には「迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心によって、迷いのままに悟りを得るとはっきりと知らされた」と示されています。
歎異抄に見られる凡夫とは
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正信偈の出拠
『高僧和讃』往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり
『論註』「道」とは無礙道なり。『経』(華厳経・意)にのたまはく、「十方の無礙人、一道より生死を出づ」と。「一道」とは一無礙道なり。「無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相なり。
『教行信証』おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。