正信偈の意味【善導独明仏正意】全文現代語訳

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現代語訳

善導大師はただ独りこれまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた。

この度は、正信偈「善導独明仏正意」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

善導・・・七高僧の第5番目、中国の善導大師(613〜681)。随の時代に山東省に生まれる。西遊記に登場する玄奘三蔵と同じ時代に生きる。29歳のとき、玄中寺の道綽禅師(当時79歳)に会い、念仏往生の教えに帰依される。その後長安の光明寺などに移り住まれ、念仏を民衆への教化をされた。69歳で亡くなられる。

七高僧の話も、やっとここまで来たね
善導大師のことを話しだしたら止まらないよ
簡単にまとめてください

正信偈の原文

善導独明仏正意
ぜんどうどくみょうぶっしょうい

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】善導独り仏の正意をあきらかにせり

【現代語訳】善導大師はただ独りこれまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた。

正信偈の分かりやすい解説

善導大師とは

この度から、七高僧の第5番目の中国の善導大師について説明します。

インドの龍樹菩薩、天親菩薩、中国の曇鸞大師、道綽禅師、そして善導大師へと教えが伝わり、凡夫が凡夫のまま救われていく間違いのない念仏の教え残されました。正信偈をお唱えする時に、一区切りつく所なので「善導独明仏正意」と聞けば、「善導」という名前を聞き覚えがあるかもしれません。

善導大師(613―681)は、若くして出家され、はじめ『維摩経』や『法華経』などを学ばれました。のちに『仏説観無量寿経』に出遇い、このお経の真意を読み解き、念仏の教えを深く学ばれました。

中国
善導大師とは、どんな人だったのか

善導大師について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、お経の解釈について同時代の僧侶の解釈の誤りを指摘し阿弥陀様のお心を広められた方です。 お経では、ここから雰囲気が変わるよね 七高僧 ...

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観想の念仏と称名の念仏

当時、「念仏」とは珍しいものではありません。たくさんある修行の1つとして、皆が口に称えていました。自らの心の雑念を払拭し、一心に集中して念仏するという「三昧の行」でした。この行によって、阿弥陀仏の姿とお浄土のありさまを心に思い浮かべる「観想の念仏」が主流でした。現代、私たちが口に称えるだけの念仏とはちがい、心の中で仏様とお浄土を思い浮かべながらのお念仏が当時の主流でした。それは、善導大師が大事にされた「称名の念仏」とは異なる念仏です。

善導大師も以前は「観想の念仏」を励み修行されていましたが、やがて辞められます。修行をしていく中で、この「観想の念仏」に果たして我がさとりはひらけるのかと強く疑問を感じ取られました。その頃、遠くの玄中寺というお寺に道綽禅師がおられました。道綽禅師とは、七高僧の4番目の方です。道綽禅師は『仏説観無量寿経』の講義を深められ、人々に念仏の教えを広めておられました。そのことを、伝え聞いた善導大師さっそく玄中寺に向かわれます。

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道綽禅師について

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玄中寺は、その昔、第3番目の高僧の曇鸞大師が本願他力の教えを説いておられました。曇鸞大師が亡くなられて70年ほどのちに、『涅槃経』の学僧であった道綽禅師が、たまたま玄中寺に立ち寄られ、曇鸞大師の石碑に出会い、その教えに深く感銘を受けられました。そして、『涅槃経』ではなく『仏説観無量寿経』について深く学び、浄土の教えに帰依されました。道綽禅師は、曇鸞大師の徳を慕って、そのまま玄中寺で講義を続けられていました。

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曇鸞大師について

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善導大師の称名念仏との出会い

その玄中寺を訪ねられた善導大師は、道綽禅師から『観無量寿経』の講説を聞き、本願他力の念仏の教えに帰依されます。『維摩経』や『法華経』ではなく、『仏説観無量寿経』について深く学ぶことで、大乗の教えに帰依されます。道綽禅師が80歳、善導大師の29歳のときのことでした。

道綽禅師が御往生の後、善導大師は唐の都の長安に移られ、光明寺というお寺で「観想の念仏」ではなく「称名の念仏」の教えを、多くの人々に説き広められます。その教えは、自力の念仏(観念)ではなく、阿弥陀仏のはたらきに身を任せる他力念仏によって浄土に往生するという教えでした。それは、以前に紹介した七高僧の残された教えと同じ道でした。

善導大師が、曇鸞大師・道綽禅師から教えを引き継がれ、伝えられたのが他力の「称名の念仏」です。やがて、日本にも伝えられて広まったのが善導流の浄土教でした。日本の法然聖人(1133―1212)が、「偏依善導一師」(偏に善導一師に依る)と宣言され、その教えが親鸞聖人に受け継がれました。

仏説観無量寿経について

善導大師は、いくつもの著書を残しており、その代表的な著作は『観経疏』(四巻)です。これは『仏説観無量寿経』(観経)の注釈書で、四巻からなるので『四帖疏』とも言われます。

『観経』には、古代インドのマガダ国で起きた事件が題材になっているいます。王子の阿闍世が、父の頻婆娑羅王を食べ物も飲み物も与えず幽閉してしまう事件です。

王妃の韋提希夫人は、夫である王を救おうと、ひそかに食べ物や飲み物を牢獄に運ばれます。しかし、韋提希夫人の行いが発覚して、韋提希は激怒した阿闍世王子に刃を向けられ、今にも殺害されそうになります。その場に居合わせた耆婆大臣に押しとどめられたて、母である韋提希夫人は殺されずに済みました。宮殿の奥深い部屋に閉じ込められ、食事も飲み物も与えられない頻婆娑羅王は間もなく亡くなります。

そこで韋提希夫人は、お釈迦様に救いを求めました。お釈迦様は韋提希夫人のために、浄土に往生する方法をお説きになりました。様々なことが説かれましたが、そのお経の最後に示された言葉が「南無阿弥陀仏」を称えなさいということでした。

その他の諸師方について

善導大師よりも前に、『観経』の註釈はいくつも残されていました。地論宗の慧遠(523―592)、天台宗の智顗(538~597)、三論宗の吉蔵(594~623)などが、当時を代表する註釈をされた方々です。

ポイント

浄影寺の慧遠(523―592)
天台宗の智顗(538~597)
三論宗の吉蔵(594~623)

善導大師は、ご自分の『観経疏』のことを「古今楷定」と言われます。これは、「(上記)古の人の解釈と今(ご自分)の解釈とを比べて、解釈を正した」という意味です。

善導大師以外の諸師方は、厳しい修行によって、浄土のありさまを心に念じ続ける「観想の念仏」が重要であると示されましたが、これに対して善導大師は、できない修行を求めることはお釈迦様の教えのご本意ではなく、誰もが称えられる「称名の念仏」こそが往生の道であると説かれました。

このため親鸞聖人は、「善導独り、仏の正意を明かせり」とは、諸師方の注釈はご本意ではなく、すべての者が救われる他力の「念仏」こそ正意であると示されました。「独り」とは、諸師方に対しての1人という意味です。

善導1人とはお釈迦様を否定していない

親鸞聖人が正信偈の中で、「善導、1人が仏の正意(お心)を明らかにされた」と記された事について、「お釈迦様も否定し、たくさんの祖師方さえも否定して、善導ただ1人が偉い」と間違った解釈をされる方がいらっしゃいますが、そうではありません。お釈迦様を否定して「善導大師ただ1人こそ偉い」とは、親鸞聖人も法然聖人も思っていません。それは、親鸞聖人の『教行信証』や法然聖人の『選択集』の内容に触れたら明らかなことです。

「ただ1人」という言葉だけを見るのではなく、善導大師の歩まれた歴史や時代背景について理解した上で、親鸞聖人の「善導独明仏正意」の意味を解釈しなければなりません。なぜなら正信偈とは、2500年の歴史、お釈迦様の時代から法然聖人に至るまで、どのような方々に出会い、浄土真宗の教えが伝わってきたのかを明らかにされた「偈(歌)」ですので、細部まで表現しきれない所も多々あるものです。それらを明らかにしたものが、親鸞聖人が生涯を通して加筆訂正して作られた『教行信証』という主著なのです。

正信偈の出拠

『観経疏』それがし、今この観経の要義を出して古今を楷定せんと欲す

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