現代語訳
信を得て大いに喜び敬う人は、ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ち切られる。
この度は、正信偈「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
見敬・・・見は「聞見」のことで、名号のいわれを聞いて、信を得て法を敬い深く心によろこぶこと。
慶喜・・・深くよろこぶこと
横超・・・本願のはたらきによって、横さまに迷いの世界を超えて、真実報土に生まれ、無上涅槃をさとること
五悪趣・・・凡夫がそれぞれの行為によって趣く5つの迷いの世界、六趣、六道ともいう。その場合は、地獄・餓鬼・畜生・人間・天界の5つの世界に修羅が入り六道という。
正信偈の原文
獲信見敬大慶喜
ぎゃくしんけんきょうだいきょうき
即横超截五悪趣
そくおうちょうぜつごあくしゅ
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】信をえて見て敬い大きに慶喜すれば、すなわち横に五悪趣を超載す
【現代語訳】信を得て大いに喜び敬う人は、ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ち切られる
正信偈の分かりやすい解説
獲信とは
「信を獲れば」(獲信)とは、「阿弥陀仏の本願を信ずる信心が得られたならば」ということです。
阿弥陀仏の本願は、すべてのものを必ず救うという究極の願いです。いつでも、どこでも、だれでも救うという事は、救いのど真ん中に今、ここで、私を目当てとしてはたらいてくださる阿弥陀様です。それが本願で、常にはたらき続けている本願のなかに、いま私がいるということです。
しかし本願を信ずるということは、自分の心に決めて信ずるものではありません。どれほど教えに感動しているかを表現する必要もなく、自分の至らなさを告白して涙ながらに「信じている」と信じぶりを表現する必要もありません。自分で信じているといえば、それは「自らのはからい」であり、親鸞聖人はそのようなものを信心とはおっしゃっていません。まことの「信」は、私が起こすものではなくて、いただくものだと親鸞聖人は「正信偈」の中でお示しくださっています。
仏を見るとは(聞見)
次に「見て敬い」ということですが、何を見て、何を敬うのでしょうか。
仏教には「聞見」という言葉があります。阿弥陀様の本願の成り立ちを聞き、教えを敬い、深く心に喜ぶことが「聞見」です。ですので、ここでは「獲信見敬大慶喜」とは「信を得て成り立ちを聞き喜び敬う」という意味です。
「必ず救う、われに任せよ」と阿弥陀様のお心に気づいた時、自分がすでに阿弥陀様に護られ抱かれていると気づいた時、我が身の愚かさに気付かされます。何もかも自己中心に考えて、何とも申し訳ない自分の姿ではないでしょうか。そのような私を目当てとして、人間の思いを越えた願いが阿弥陀様から私に差し向けられているのです。
阿弥陀様のはたらき(お心)に気づき、我が身が煩悩ばかりの救われ難い身でありながら、その私を目当てにするとお誓いくださった由来を聞く中で、この上ない喜び「大慶喜」となるのだとお示しくださっています。
六道とは
次に「すなわち横に五悪趣を超截す」とあり、さまざまな迷いの状態を飛び越えていけるとあります。
六道とは
「五悪趣」とは、自分の行いの結果として趣く(行く)所です。地獄・餓鬼・畜生・人・天の五趣をいいます。畜生と人との間に阿修羅を加えて、「六趣」「六道」とも言います。
地獄・餓鬼・畜生は、悪い行いによって生まれる所なので「三悪趣」
修羅・人・天は善い行いによって生まれる所なにで「三善趣」ともいう。
ところが六趣(六道)から人・天を除いて四悪趣ということもあります。
生前の善悪の行為によって死後に地獄に落ちたり、天上界に生まれるという考え方があります。お釈迦様が生まれる以前の古代インドには、もともとあった考え方です。それが仏教の中にも取り入れられた形となっています。
そのような考え方が広まったのには理由があります。人に教える時に「悪い事は駄目だよ、良い行いをしなさい、じゃないと地獄に落ちるよ」と言われたら、どうでしょうか?分かりやすいですし、そこに仏教ではない教訓的社会的なモラルも付け加えて教えていったらどうでしょうか。地獄に落ちたくないから良いことをする。次の世界では良い世界に生まれたいから、社会的ルールに沿った形で教えが合わされて伝えてこられた側面もあるのです。
しかし、死後だけの世界ではなく今の生きている世界にも地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という見方が出来るのではないでしょうか。
ポイント
「地獄」とは、自分の行いの結果として生存中に経験する耐え難い苦しみの状態です。
「餓鬼」とは、自分が引き起こす貪欲のために、自分自身が苦しむ状態です。
「畜生」とは、道理に対して無知であるために、争い合い、殺し合って、結果として自分が苦しむ状態です。
「修羅」とは、古代のインドでは戦闘をつかさどる鬼神とされていましたが、ここでは自らの怒り憎しみの心によって、かえって自分が傷つき苦しむことになる状態です。
「人」とは、感情(貪欲・瞋恚・愚痴また喜怒哀楽)に支配されて思い悩む状態です。
「天」とは、精神作用のよい状態で、この中では最も勝れた状態ではありますが、永遠には続くことがないのでやはり苦しい状態に変わりはありません。
このように六道といっても死後の世界ではなく、自分の行いによって日常に経験する苦悩のことです。
阿弥陀仏の本願を聞いていく(聞見)と、それはこの上ない「大慶喜」の心となると言われます。それが「獲信見敬大慶喜」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と示されている所です。次に「即横超截五悪趣」ですので、すぐに私たちが日頃から経験している、この「五悪趣」という迷いと悩みの状態を超えることになるとお示しです。
横超とは
「超截」とは飛び越えて、束縛を断ち切ることです。「即」は「すなわち」「即座に」という意味です。本願について「大きに慶喜」するならば、即座に五悪趣を超えていくというのです。
「横超」は、親鸞聖人がお使いになられた言葉です。一切の段階を飛び越えて、目的に達するという見方です。凡夫が煩悩を一つ一つ取り除いて、だんだんと仏の境地に近づくのではなく、凡夫が凡夫のままで、即座に仏に成るというのです。
一般的に、仏道修行は階段のようなものです。それは一段一段階段を登るように一つひとつ煩悩を取り除き、清らかな心と清らかな身体となり、一切の欲望を取り去った存在が仏という存在です。菩薩の52位が、まさに仏へとなる果てしない階段です。この道筋を通ることを「堅超」といい横超の反対になります。しかし、「横超」とは凡夫が一挙に仏に成るのです。往生できるはずのない煩悩だらけの存在が、ひとっ飛びに仏になれるとお示しくださっているのです。それは、すべて阿弥陀様のはたらきのおかげです。常に阿弥陀仏のはたらき(力)は私に届けられています。私どもの常識では説明のつかない、大慈悲のはたらきによるのです。
菩薩の修行によるランクアップ
現代語訳 正定聚しょうじょうじゅの位くらいにつき、浄土に往生してさとりを開くことができるのは、必至ひっし滅度めつどの願(第11願)が成就されたことによる。 この度は、正信偈「成等覚証大涅槃 必至滅度願 ...
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先の「竪超」は、自分の力を頼りにしています。自分の努力を信頼しています。しかし、自分の力が信頼できなくなれば、一体どうするのか。「いずれの行もおよびがたき身」は、阿弥陀仏の願いという他力にお任せする以外に、なすすべはないのです。本願力にお任せするときに、自力を捨てて本願に帰依すると教えておられるのです。
獲信見敬大慶喜と獲信見敬得大慶の違い
正信偈には「獲信見敬大慶喜」
『尊号真像銘文』には「獲信見敬得大慶」と記されています。
大慶喜と得大慶と違いがあるのはなぜでしょうか。
それは「獲信見敬得大慶喜人」の9文字が、正信偈の1句7字に収められるにあたって様々な形となりました。
この「獲信見敬得大慶喜人」は、『大経』の「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。」の一説を表した言葉です。
他にも、
「見敬得慶喜人」、「獲信見敬大慶人」と表された書物もあるので、どれが正しいというもありません。『銘文」には、「得大慶」の言葉を解説されていますが、これは「安城御影」の銘文が「獲信見敬得大慶」となっていることから、「得大慶」で解説されています。
こちらの掛け軸の下段には、
和朝釋親鸞正信偈曰
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
獲信見敬得大慶 即横超截五悪趣
となっています。正信偈の言葉と同じですが、「獲信見敬大慶喜と獲信見敬得大慶の違い」はありますが、これらは「獲信見敬得大慶喜人」の9字が、正信偈の7字に収められた都合上、表記は違いますが意味は同じです。
正信偈の出拠
『銘文』「獲信見敬得大慶」といふは、この信心をえておほきによろこびうやまふ人といふなり。「大慶」は、おほきにうべきことをえてのちによろこぶといふなり。「即横超截五悪趣」といふは、信心をえつればすなはち横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。「即横超」は、「即」はすなはちといふ、信をうる人はときをへず日をへだてずして正定聚の位に定まるを即といふなり。「横」はよこさまといふ、如来の願力なり、他力を申すなり。「超」はこえてといふ、生死の大海をやすくよこさまに超えて無上大涅槃のさとりをひらくなり。
『大経』横載五悪趣悪趣自然閉
『銘文』「横截五悪趣悪趣自然閉」といふは、「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり。これを横超といふなり。横は竪に対することばなり、超は迂に対することばなり。竪はたたさま、迂はめぐるとなり。竪と迂とは自力聖道のこころなり、横超はすなはち他力真宗の本意なり。「截」といふはきるといふ、五悪趣のきづなをよこさまにきるなり。「悪趣自然閉」といふは、願力に帰命すれば五道生死をとづるゆゑに自然閉といふ。「閉」はとづといふなり。本願の業因にひかれて自然に生るるなり。
『教行信証』断といふは、往相の一心を発起するがゆゑに、生としてまさに受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有の生死を断絶す。ゆゑに断といふなり。
『銘文』「教有漸頓」といふは、衆生の根性にしたがうて仏教に漸頓ありとなり。「漸」はやうやく仏道を修して、三祇百大劫をへて仏に成るなり。「頓」はこの娑婆世界にして、この身にてたちまちに仏に成ると申すなり。これすなはち仏心・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり。「機有奢促者」といふは、機に奢促あり。「奢」はおそきこころなるものあり、「促」はときこころなるものあり。このゆゑに「行有難易」といふは、行につきて難あり、易ありとなり。「難」は聖道門自力の行なり、「易」は浄土門他力の行なり。「当知聖道諸門漸教也」といふは、すなはち難行なり、また漸教なりとしるべしとなり。「浄土一宗者」といふは、頓教なり、また易行なりとしるべしとなり。
『大経』法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。