現代語訳
五劫もの長い間思惟してこの誓願を選び取り、名号をすべての世界に聞えさせようと重ねて誓われた。
この度は、正信偈「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
劫・・・昔のインドの言葉、サンスクリット語で「カルバ」。大変長い時間のこと
思惟・・・瞑想に入って深く思索をこらすこと
摂受・・・悪いものを選び捨て、良いものを選んで取り入れること。また選択(仏教ではセンジャクと言う)も同じ意味で選び取り、選び捨てるということ。
重誓・・・法蔵菩薩が48の願いを説き終わった後、さらに誓われた願い。
名声・・・仏教ではミョウショウと言う。南無阿弥陀仏の名前のこと。また名号ともいう。
正信偈の原文
五劫思惟之摂受
ごこうしゆいししょうじゅ
重誓名声聞十方
じゅうせいみょうしょうもんじっぽう
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】五劫これを思惟して摂受す 重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと
【現代語訳】五劫もの長い間思惟してこの誓願を選び取り、名号をすべての世界に聞えさせようと重ねて誓われた。
正信偈の分かりやすい解説
煩悩・凡夫
苦しみ悩む私たち凡夫は死後に、どのような世界が待っているのか分かりません。しかも「分かっていない」という事もわかっていません。考えないようにして、ただ目の前の事、見えるものだけを信じて一生懸命に生きているのが、凡夫というのです。時に自分自身にこだわって(我執)、自分はわかっていると思い(無知)、凡夫の範疇でわかっていると思っていることだけが道理(無明)だと思い込んでいます。
仏教的に見るならば、このような凡夫が極楽浄土に生まれるということはあり得ないことです。浄土というのは、今あげた「我執、無知、無明」また「煩悩」という汚れがまったくない世界だからです。まったく汚れがない世界だから浄土(清浄仏国土)というのです。
法蔵菩薩は浄土に往生できるはずのない凡夫を、どうすれば自分が浄土に導き入れることができるのか、それを深く深く考えた(五劫思惟)と『仏説無量寿経』に説かれています。そのことを親鸞聖人は「五劫思惟之」(五劫とは長い時間、思惟とは考える)と述べています。
劫とは、時間を表すたとえ話
「劫」とは、40里立方の城内に満たした芥子を3年に1粒ずつ取り出して無くなるまでの時間を表す(芥子劫)という説や、或は40里立方の石を3年に1度ずつ天女が降りてきて、そのはごろもで拭って摩滅するまでの時間(磐石劫)を1劫といいます。
その1劫の5倍である、五劫という時間をかけて法蔵菩薩は「すべての人を救済するにはどうしたらいいのか」を思案されました。
これは、科学的に実証してどれだけの時間をかかるかと、算出されたというものではなく、それほどまで長い長い時間をかけて思惟されたということを表します。それほどまで時間が必要ということは、すべての凡夫(私)が救われるには、どれほどのご苦労があったのか、自分一人ひとりが、どれほどの凡夫であるのかを明らかにされたということです。
私たちも「悩みを持ち」、時間をかけて考えることがありますが、どんなに真剣に考えたとしても、必ず自分の都合とかいうものが絡んでしまいます。その上、5劫もの長い時間をかけて悩むことはありません。法蔵菩薩が思惟されたのは、私達の「考える」とは次元のまるで違った純粋な思案、救われ難い凡夫を救うための長い長い時間をかけて思案を重ねられたのです。その思いの深さを「五劫」という時間で言い表わしてあるのです。ただ単に「長い時間」を表すのではなく、同時に「私の救われ難き存在」をも明らかにしてくださっているお言葉です。
親鸞聖人の考え
『歎異抄』の中には親鸞聖人の常々おっしゃられた事に
歎異抄後序
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり
と記されています。それほどまで深い願いが自分に差し向けられていることに感動しておられるのです。
現代語訳
阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか
とおっしゃっておられるのです。自分を取り繕うことなく、救い難い凡夫であると表明し、その深い自覚から法蔵菩薩の願いに触れたときの喜びを表しておられます。
重誓名声聞十方とは
5劫という長い時間をかけて思惟され、すべての苦しみ悩む人々を「南無阿弥陀仏」(名号・念仏)によって救済するという方法を見つけた阿弥陀様がすぐに行ったこととは、この「南無阿弥陀仏」という念仏がどれほど素晴らしいものであるかを十方諸仏に説き示させようとされました。それが17願の
仏説無量寿経
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
という言葉です。そして諸仏が讃嘆していることを後に『仏説無量寿経』の下巻には
仏説無量寿経
十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。
と、このように具体的な姿で表されています。「重誓名声聞十方」とは、五劫もの長い間思惟された阿弥陀様が、後にこの優れた教えを十方の諸仏に認めさせて、そしてこの「南無阿弥陀仏」の名号がすべての苦しみ悩む人々に、助けを求めている人々に届くようにと重ねて誓われたということを表します。
正信偈の出拠【参考文】
『教行信証』ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時
『大経』五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す
『大経』われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
『大経』(17)たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
『大経』(17願成就文)十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。