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正信偈の解説と現代語訳

正信偈の意味【普放無量無辺光-超日月光照塵刹】全文現代語訳

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現代語訳

本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無礙むぎ光・無対光・光炎こうえん王・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思なんじ光・無称むしょう光・超日月ちょうにちがつ光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされる。

この度は、正信偈「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

塵刹じんせつ・・・塵のような私ども多くの世界のこと

一切群生ぐんじょう・・・すべての命あるもの。群生とは衆生しゅじょう有情うじょうともいう。すべての人々のこと。

光照こうしょう・・・12光仏のお徳、はたらき。阿弥陀様の光に今、私たちは照らされている。

無量や無辺って阿弥陀様のことで聞いたことあるけど、他はなんなの?
阿弥陀様のはたらきを光に例えて12で表しているよ
そんなに仕事がたくさんあるのかぁ

正信偈の原文

普放無量無辺光
ふほうむりょうむへんこう
無碍無対光炎王
むげむたいこうえんのう
清浄歓喜智慧光
しょうじょうかんぎちえこう
不断難思無称光
ふだんなんじむしょうこう
超日月光照塵刹
ちょうにちがっこうしょうじんせつ
一切群生蒙光照
いっさいぐんせいもうみつてる

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】あまねく無量・無辺光
無礙・無対・光炎王
清浄・歓喜・智慧光
不断・難思・無称光
超日月光を放ちて塵刹を照らす
一切の群生、光照を蒙る

【現代語訳】本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無礙むげ光・無対光・光炎王こうえんのう・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされる。

正信偈の分かりやすい解説

阿弥陀様を12の光で説明

阿弥陀仏のはたらきが12の光として例えられ、阿弥陀仏の別の呼び名として『仏説無量寿経』に述べられているものです。
阿弥陀仏は、12の光を放ち無数の世界を照らされているという事です。つまり阿弥陀仏のはたらきには、人間のあらゆる状況を覆っている無知という闇(煩悩・無明)を破って、すべてを光り輝かせる徳がそなわっているということです。

そしてすべての人々は、この光の輝きを今現在受けているのであって、阿弥陀仏のはたらきを受けていない人はいないのです。親鸞聖人は『仏説無量寿経』によって、「正信偈」に12の光の名を掲げておられます。

①無量光

その第1は「無量光」です。これは阿弥陀仏の48願の第12願「光明無量の願」によるもので

第12願 光明無量の願

わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません

という誓願せいがんなのです。これについて親鸞聖人は『和讃』に

和讃

智慧の光明はかりなし 有量諸相しょそうことごとく
光暁こうきょうかぶらぬものはなし 真実みょう帰命きみょうせよ

智慧の光明はかりなし=無量光ということです。

現代語訳

阿弥陀如来の智慧から放たれる光明は、人間の力によってはとても計り知ることができない。いつの時代も、どんな国のどのような人でもみな、この如来の光照こうしょうをこうむって、煩悩の闇をはらし明るい世界をたまわらないものはない。真実の智慧の如来である阿弥陀如来に我が身をお任せしなさい

と記されています。だから、真実の光明である阿弥陀仏に帰命しなさいと教えておられるのです。

生きとし生けるものを照らす光明は、他力の世界に導き入れる阿弥陀様のはたらきであり、「お育て」という表現をします。

口伝鈔

しかれば、往生の信心のさだまることはわれらが智分ちぶんにあらず、光明のえんにもよほし育てられて名号信知しんちの報土のをうと、しるべしとなり。これを他力たりきといふなり。

と説かれるように、苦しみ悩む凡夫が自分たちの力で「どうにかしてやろう」と考えるのではなく、阿弥陀様の救済によって成り立つものであり、そのままお任せしてしていける「宗教的」豊かな生き方を「お育て」といいます。

②無辺光

第二は「無辺光」です。阿弥陀仏の智慧の光明は、行き届かないというようなほとり(ふち)はないということです。これを『和讃』には、

和讃

解脱げだつ光輪こうりんきわもなし 光触こうそくかぶるものはみな
有無をはなるとのべたまう 平等覚びょうどうがくに帰命せよ

解脱の光輪きわもなし=無辺光ということです。
救済のはたらきを光の輪に例え、その光の輪はきわがない、辺りがないというのです。

現代語訳

束縛から解き放ってくださる如来の光明は、いつの時代にも、どんなところでもはたらいてくださっている。この光明に触れるものは、有れば有るで苦しみ、無ければ無いといって悲しむことから開放されると曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈さんあみだぶつげ』というお書物には述べられている。私達に平等をさとらせてくださる阿弥陀仏に我が身をお任せしなさい

と記されています。悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際へんざいがないので、平等普遍の智慧をそなえられた阿弥陀仏に帰命しなさいと教えておられるのです。

③無碍光

第三は「無碍光」です。何ものにもさえぎられることがないのが阿弥陀仏の智慧の光明です。『和讃』には

和讃

光雲こううん無碍むげ如虚空にょこくう 一切の有碍うげにさわりなし
光沢こうたくかぶらぬものぞなき 難思議なんじぎを帰命せよ

一切の有碍にさわりなし=無碍光ということです。

現代語訳

如来の光明は雲のように、あまねくゆきわたって法雨をそそぎ、衆生を利益りやくしたまい、妨げるもののないことは、あたかも大空のごとく、世界のどのようなものも、この光明のはたらきの障碍しょうげとなるものはなく、光明の潤いをこうむらないものはない。不可思議な光明の如来である阿弥陀如来に我が身をお任せしなさい

と記されています。光に満ちた雲のように阿弥陀仏の智慧は、何ものにもさまたげられることはない。光に満ちた雲の潤いをこうむらないものはないのだから、われわれの思慮や思い、はからいでは推し量れない阿弥陀仏の徳をよりどころにせよと親鸞聖人は教えておられるのです。また阿弥陀様の救済を12の光で表されていますが、その中でもっとも大事なものはこの「無碍光」であるとお手紙で述べられています。

④無対光

第四は「無対光」で、これは対比するものがない光ということです。阿弥陀仏は、他の何ものとも比較のしようがない、勝れた智慧の徳をそなえておられるのです。『和讃』には、

和讃

清浄光明ならびなし 遇斯光ぐしこうのゆえなれば
一切の業繋ごうけものぞこりぬ 畢竟依ひっきょうえを帰命せよ

清浄光明ならびなし=無対光ということです。

現代語訳

一切の煩悩はなれた、清らかな悟りより放たれる阿弥陀如来の光明が諸仏の光明にすぐれていることは、他に比べるものがない。この光明においするゆえ、迷いの世界に繋ぎとめる煩悩ぼんのう悪業あくごうは、すべてみな除かれてしまう。究極のよりどころである阿弥陀如来に我が身をお任せしなさい

と記されています。人生の最後の最後の依り処である阿弥陀仏を頼りにしなさいと教えられています。「畢竟ひっきょう」とは究竟くきょうともいい、「究極、最終、絶対の、絶対に」という意味です。「畢竟寂滅じゃくめつ」とは涅槃ねはんのこと。仏は究極的な依りどころであるから畢竟依ひっきょうえといい、阿弥陀仏の別名でもある。私たちは目先の価値にとらわれて、あてにはならない物をあてにして、それを依り処にして生きています。本当に最後の最後に依り処になるものを確かめられたならば、これほど安らかで歓びに満ちた人生はないと教えておられるのです。

⑤光炎王

第五は「光炎王」です。「ほのお」は私たちの愚かさから起こるさまざまな迷いの煩悩を焼き尽くすことをたとえられたものです。阿弥陀仏の智慧の光明は、無知(無明)の暗闇くらやみを照らし、暗闇を晴らすはたらきがあります。『和讃』には

和讃

仏光ぶっこう照曜しょうよう最第一さだいいち 光炎王仏こうえんのうぶつとなづけたり
三塗さんず黒闇こくあんひらくなり 大応供だいおうぐを帰命せよ

仏光照曜最第一=光炎王ということです。

現代語訳

阿弥陀如来の光明の輝きのすぐれていることは、とても諸仏の光明の及ばないところである。それで光炎王仏と申し上げる。たとえ三悪道さんまくどう(地獄・餓鬼がき畜生ちくしょう)の暗黒の世界の中にある衆生でも、この光明にあう者は、やがて往生を得ることができる。このような素晴らしい徳のある大応供だいおうぐとも讃えられる阿弥陀如来に我が身をお任せしなさい

と記されています。阿弥陀仏の智慧の光の輝きは最高で、阿弥陀仏の別名を「光炎王仏」ともいう。智慧の光はわれらの迷いの暗闇を破り、大応供(応供おうぐとは仏の10種の名の1つで価値のある人、尊敬すべき人、他人から供養を受けるに十分相応すべき人)と、親鸞聖人は教えておられるのです。

⑥清浄光

第六は「清浄光」です。欲や貪りの心に支配される心の汚れに気づかせ、はたらきかけてくださる智慧の光です。『和讃』には

和讃

道光どうこう明朗みょうろう超絶ちょうぜつせり 清浄光仏こうぶつともうすなり
ひとたび光照こうしょうかぶるもの 業垢ごうくをのぞき解脱をう

道光明朗超絶せり=清浄光ということです。

現代語訳

阿弥陀如来のさとりから放たれる光明が、光り輝くようすは、すぐれていてとても諸仏の及ばないところである。それゆえ、清浄光仏と申し上げるのである。一度この光明のお照らしを受ける者は、即座に悪業あくごう煩悩のあかが除かれ、浄土に往生して迷いの世界を脱し、仏のさとりを得べき身となるのである

と記されています。本願の光は、諸仏を超えて明るく輝いているので、阿弥陀仏を「清浄光仏」とも申し上げる。ひとたびこの光を身に受けたならば、心身の汚れは取り除かれると教えておられるのです。

⑦歓喜光

第七は「歓喜かんぎ光」です。慈しみとしてはたらく阿弥陀仏の光は、怒りや憎しみの心を和らげてくださる。『和讃』には

和讃

慈光じこうはるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
法喜ほうきをうとぞのべたまう 大安慰だいあんにを帰命せよ

慈光はるかにかぶらしめ=歓喜光ということです。

現代語訳

阿弥陀如来のお慈悲の光明は、われわれとは遥かに隔たった境地から、いつでもどこでも果てしなく照らし、その光明に照らされて信心を頂くものは、自ずから教えを喜ぶ心が得られると曇鸞大師は述べられている。衆生の大きな安らぎと慰めとなってくださる阿弥陀如来に我が身をお任せしなさい

記されています。最大の慰めとなる阿弥陀仏を頼みとしなさい教えておられるのです。

⑧智慧光

第八は「智慧光」です。私どもは無知(無明)で真の道理に気づかず、愚かで執着(煩悩)そのものです。しかし自分が無知であることにも「無知」です。阿弥陀仏の智慧の光は、私どもに無知を知らせ無知の闇を破ってくださるのです。これを『和讃』には

和讃

無明の闇をするゆえ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆さんじょうしゅ ともに嘆誉たんよしたまえり

無明の闇を破するゆえ=智慧光ということです。

現代語訳

衆生の本願を疑う心を破り、信心の智慧をお与えくださる故に、阿弥陀如来を智慧光仏と名付けられた。一切の諸仏方に因縁いんねんを持つすべての人々は、皆ともにこの如来の光明のお徳を誉めたたええられた。

記されています。無明の闇を破るので阿弥陀仏を「智慧光仏」ともいう。一切の諸仏も諸菩薩も仏弟子も、こぞってこの智慧の光をほめ讃えておられると教えておられるのです。

⑨不断光

第九は「不断ふだん光」です。これは一刻も一刹那せつなも途絶えることなく、私どもを照らし続けてくださる阿弥陀仏の光明のことをいいます。この光明のことを『和讃』には

和讃

光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり
聞光力もんこうりきのゆえなれば 心不断しんふだんにて往生す

光明てらしてたえざれば=不断光ということです。

現代語訳

如来の光明が信心の人を絶え間なく照らし続けていてくださる故、阿弥陀如来を不断光仏とも名付けられた。如来の光明の不思議な力を信ずる故に、信心も不断で、本願に対する一念の疑いも生じず、憶念おくねんしんえずに往生するのである。

と記されています。阿弥陀仏の光明は常に我らを照らし絶えることがないので、「不断光仏」ともいう。このように親鸞聖人は教えられておられるのです。

⑩難思光

第十は「難思なんじ光」です。凡夫の思いによっては、到底量り知ることのできない光明のことです。『和讃』には

和讃

仏光ぶっこう測量しきりょうなきゆえに 難思光仏となづけたり
諸仏は往生たんじつつ 弥陀の功徳を称せしむ

仏光測量なきゆえに=難思光ということです。

現代語訳

阿弥陀如来の光明は、ただ仏でなければ十分知り通すことができないほど広大で、われわれ迷いの衆生に知り尽くすことができないので、難思光仏と名付けられた。十方諸仏は、衆生の往生をすばらしいこととほめながら、衆生を往生させる阿弥陀仏の功徳を称賛される

と記されています。阿弥陀仏の光明は誰も思い量ることができないので「難思光仏」という。あらゆる仏が、凡夫の往生を讃嘆され、それを実現される阿弥陀仏の恩徳おんどくをほめ讃えておられると教えておられるのです。

⑪無称光

第十一は「無称むしょう光」です。「称」は「はかる」という意味です。これを『和讃』には、

和讃

神光じんこう離相をとかざれば 無称光仏となづけたり
因光いんこう成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり

神光の離相をとかざれば=無称光ということです。

現代語訳

阿弥陀如来の威神いじん光明ともいわれる不思議な光明は、すがた形を離れていて説くことができないので、無称光仏と名付けられた。衆生が如来の光明によって浄土往生をげ、仏となって阿弥陀仏と同じ光明を放つことを、諸仏方が無称光のはたらきによるものと讃えられる

と記されています。阿弥陀仏の光明はあらゆる迷いから離れたものであるが、凡夫にはとてもそのありさまは説明できないので、阿弥陀仏を「無称光仏」ともお呼びする。凡夫を救うために、その光の仏(はたらき)に成られたので、すべての仏がこの光明の徳をほめておられると教えておられるのです。

⑫超日月光

第十二は「超日月ちょうにちがつこう」です。阿弥陀仏の光明が、日月の光を超えた光にたとえられています。太陽の光は昼間に輝き夜は照らしません。月の光は夜は照らすけれども昼は輝きません。月日の光には限りがあります。さらに、どちらの光も光の届かない影を作ってしまいます。阿弥陀仏の光明は、昼夜の限りがなく(24時間)、しかも届かないところが(影を作ら)ないのです。
これを『和讃』には

和讃

光明こうみょう月日つきひ勝過しょうがして 超日月光となづけたり
釈迦嘆じてなおつきず 無等等むとうどうを帰命せよ

光明月日に勝過して=超日月光ということです。

現代語訳

阿弥陀如来の厳かで気高い光明は、月や太陽の光もとても比べ物にならない、それで超日月光と名付けられた。釈迦如来も、無量寿の光明のすばらしさは、たとえ夜を昼をついで、24時間通して一劫いっこうの間讃歎さんだんしても、なおほめ尽くせないと述べられている。他に比類のない阿弥陀如来に我が身をお任せしなさい

と記されています。阿弥陀仏の光明は、月日の光よりはるかに勝れているので、「超日月光仏」ともいう。お釈迦様ですらこの智慧の徳をほめ尽くせず、等しく並ぶもののない阿弥陀仏に帰命しなさいと教えておられるのです。

これら12の光の働きによって表され、その輝きをこうむっていない者は一人もいないと記されています。

正信偈の出拠【参考文】

『大経』無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬、二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至一仏刹土を照らす。このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。

『浄土和讃』

(4)無量光について
智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ

(5)無辺光について
解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ

(6)無碍光について
光雲無礙如虚空 一切の有礙にさはりなし
光沢かぶらぬものぞなき 難思議を帰命せよ

(7)無対光について
清浄光明ならびなし 遇斯光のゆゑなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

(8)光炎王について
仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ

(9)清浄光について
道光明朗超絶せり 清浄光仏とまうすなり
ひとたび光照かぶるもの 業垢をのぞき解脱をう

(10)歓喜光について
慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ

(11)智慧光について
無明の闇を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆 ともに嘆誉したまへり

(12)不断光について
光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり
聞光力のゆゑなれば 心不断にて往生す

(13)難思光について
仏光測量なきゆゑに 難思光仏となづけたり
諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ

(14)無称光について
神光の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり
因光成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり

(15)超日月光について
光明月日に勝過して 超日月光となづけたり
釈迦嘆じてなほつきず 無等等を帰命せよ

『弥陀如来名号徳』『讃阿弥陀仏偈』にいはく、 曇鸞和尚の造 「南無阿弥陀仏 釈して『無量寿傍経』と名づく、讃めたてまつりてまた安養といふ成仏よりこのかた十劫を歴たまへり。寿命まさに量りあることなけん。法身の光輪、法界に遍じて世の盲冥を照らす、ゆゑに頂礼したてまつる。(無量1)智慧の光明量るべからず、ゆゑに仏をまた無量光と号す。有量の諸相光暁を蒙る、このゆゑに真実明を稽首したてまつる。(無辺2)解脱の光輪限斉なし、ゆゑに仏をまた無辺光と号す。光触を蒙るもの有無を離る、このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。(無碍3)光、雲のごとくにして無碍なること虚空のごとし、ゆゑに仏をまた無碍光と号す。一切の有碍光沢を蒙る、このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。(無対4)清浄の光明、対あることなし、ゆゑに仏をまた無対光と号す。この光に遇ふものは業繋除こる、このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。(光炎5)仏光照耀して最第一なり、ゆゑに仏をまた光炎王と号す。三塗の黒闇、光啓を蒙る、このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。(清浄6)道光明朗にして色超絶したまへり、ゆゑに仏をまた清浄光と号す。ひとたび光照を蒙るに罪垢除こり、みな解脱を得しむ、ゆゑに頂礼したてまつる。(歓喜7)慈光はるかに被らしめ安楽を施す、ゆゑに仏をまた歓喜光と号す。光の至るところの処に法喜を得しむ、大安慰を稽首し頂礼したてまつる。(智慧8)仏光よく無明の闇を破す、ゆゑに仏をまた智慧光と号す。一切諸仏三乗衆、ことごとくともに嘆誉す、ゆゑに稽首したてまつる。(不断9)光明一切のときにあまねく照らす、ゆゑに仏をまた不断光と号す。聞光力のゆゑに心断えずして、みな往生を得しむ、ゆゑに頂礼したてまつる。(難思10)その光、仏を除きてはよく測ることなけん、ゆゑに仏をまた難思光と号す。十方諸仏往生を嘆じ、その功徳を称せしむ、ゆゑに稽首したてまつる。(無称11)神光は相を離れたること名づくべからず、ゆゑに仏をまた無称光と号す。光によりて成仏したまふ、光赫然たり、諸仏の嘆じたまふところなり、ゆゑに頂礼したてまつる。(超日月12)光明照曜して日月に過ぎたり、ゆゑに仏を超日月光と号す。釈迦仏嘆じたまふことなほ尽きず、ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつると。

『弥陀如来名号徳』阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり。このひかりを無礙光仏と申すなり。無礙光と申すゆゑは、十方一切有情の悪業煩悩のこころにさへられずへだてなきゆゑに、無礙とは申すなり。弥陀の光の不可思議にましますことをあらはししらせんとて、帰命尽十方無礙光如来とは申すなり。無礙光仏をつねにこころにかけ、となへたてまつれば、十方一切諸仏の徳をひとつに具したまふによりて、弥陀を称すれば功徳善根きはまりましまさぬゆゑに、龍樹菩薩は、「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水」(十二礼 六八一)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無礙光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は『往生論』(浄土論)にあらはせり。

『御消息』ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしまゐらせ候ふ。くはしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしるして候ふ。
詮ずるところは、無礙光仏と申しまゐらせ候ふことを本とせさせたまふべく候ふ。無礙光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなく、たすけさせたまはん料に、無礙光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

『教行信証』大行というは無碍光如来の名を称するなり。

『教行信証』仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり

『口伝鈔』しかれば、往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

『蓮如聖人御一代聞書』蓮如上人仰せられ候ふ。弥陀の光明は、たとへばぬれたる物をほすに、うへよりひて、したまでひるごとくなることなり。これは日の力なり。決定の心おこるは、これすなはち他力の御所作なり。罪障はことごとく弥陀の御消しあることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

『蓮如聖人御一代聞書』陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

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