現代語訳
インドの菩薩方や中国と日本の高僧方が釈尊が世に出られた本意をあらわし弥陀仏の本願(願い)は、私たちのために建てられたことを明らかにされた
この度は、正信偈「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
西天・・・西蕃、月支ともいう。パキスタン、シルクロードの国々のこと。
中夏・・・中国のこと。
日域・・・日本のこと。
論家・・・菩薩のこと、インドの方への敬称
高僧・・・中国・日本の場合の敬称
如来の本誓・・・阿弥陀如来の48願を「大弘誓」「本願」「弘願」「大誓願」「誓願」「選択本願」などという。正信偈の中にも別称が引用されている。
機・・・心が縁によって動く意味から、仏の力で信心を起こす衆生を意味する。
正信偈の原文
印度西天之論家
いんどさいてんしろんげ
中夏日域之高僧
ちゅうかじちいきしこうそう
顕大聖興世正意
けんだいしょうこうせしょうい
明如来本誓応機
みょうにょらいほんぜいおうき
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】印度西天の論家、中夏(中国)・日域(日本)の高僧、大聖(釈尊)興世の正意を顕し如来の本誓、機に応ぜることを明かす
【現代語訳】インドの菩薩方や中国と日本の高僧方が釈尊が世に出られた本意をあらわし阿弥陀仏の本願(願い)は、私たちのために建てられたことを明らかにされた
正信偈の分かりやすい解説
依釈段のはじまり
ここから「正信偈」の第3段落の「依釈段」に入ります。この「依釈段」は、インド・中国・日本の7人の高僧が明らかにしてくださった阿弥陀仏の本願についての解釈の要点を挙げ、そのお徳を親鸞聖人は讃嘆されています。
七高僧の一人ひとりの解釈を述べる前に、「総讃」といわれる4句があります。正信偈の「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」(印度・西天の論家、中夏・日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす)という偈文です。
「印度」はインド、「西天」とは中国より西方にあたる天竺(インド)のことです。「論家」というのは、「論」(大智度論・浄土論など)といわれる著作を残された人です。そして「中夏」は中国の、「日域」は日本のことです。
インドには、「龍樹大士(菩薩)」と「天親菩薩」の2人の高僧が出られました。中国には、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師という3人の高僧が出られました。そして日本には、源信僧都と源空(法然)聖人の2人の高僧が出られました。
この方々以外にも、念仏の大切さを教えられた先人はたくさんおられました。けれども阿弥陀如来の本願が、まさしく私たちのような邪見・憍慢の悪衆生を救いの目当てとしていることを明らかにされたから、親鸞聖人はこの7人の高僧を選び取られました。
親鸞聖人が七祖を選んだ理由
親鸞聖人は、正信偈を記すにあたって自らの考えを発表したのではなく「唯可信斯高僧説」(この高僧の説を信ずべし)と述べられたように7人の高僧を挙げて、浄土真宗の正当性と阿弥陀仏の本願を世の中に広めてくださ ...
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お釈迦様のお出ましになられた訳
「大聖」とはお釈迦様のことです。その「興世の正意を顕し」とあるので、お釈迦様がこの世にお出ましになられた、本当の意味(真意)が「興世の正意」ということです。
少し前に、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)とありました。「釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、ただ海のように広大な阿弥陀仏の本願のことをお説きになるためであった」とある部分が「興世の正意」です。
お釈迦様がこの世にお生まれになった理由
現代語訳 如来が世に出られるのは、ただ阿弥陀仏の本願一乗海いちじょうかいの教えを説くためだった。 この度は、正信偈「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」について意味を分かりやすく解説します。 語句説明 如 ...
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その興世の正意である『仏説無量寿経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願を明らかにされました。その後、7人の高僧が阿弥陀仏が私たちに何を願っているのか、まさにそのことを顕かにされてました。
次に「如来の本誓、機に応ぜることを明かす」とありますが、この「如来」は、阿弥陀如来です。「本誓」というのは、本願の事であり、救われ難い凡夫を必ず救いたいと願われました。そしてその願いが成就しないのであれば、仏にはならないと誓われた誓願(第18願)のことです。
機とは
「機」とは、根本となる性質・資質であり、縁にあえば発動する可能性をもつ、仏の教法を受けその教化を被る者の素質能力のことです。私たちは、煩悩を取り除くことが出来ない存在です。拭えども必ずわき起こってくることを
一念多念文意には
凡夫というふは、無明、煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで、とどまらずきえず、たえずと
このようにお示しくださっています。比叡山で20年のご修行をされたお言葉として、深く受け止めたいと思います。親鸞聖人は20年の比叡山での厳しいご修行を身をもって経験して分かったことは、頑張っても煩悩はなくならないということです。たえず、きえず私に付きまとうものなのです。けれども、そんな私だからこそ、それを救いたいと願われる阿弥陀仏だったのです。つまり「機」とは、本願の対象となっている者、そのような生き方しかできない者です。
龍樹大士・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都・源空(法然)聖人のお徳を親鸞聖人は讃えています。
そして、親鸞聖人は「自分こそ阿弥陀仏の本願(救済)のお目当てである」ということを喜ばれました。
歎異抄には
阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。
私達は親鸞聖人とは時代は違っても、欲に振り回され、老病死の問題を抱えてこの世に生まれてきました。だからこそ、そんな私を救いたいと阿弥陀仏の大悲の願いがわたし達に向けられていることに気づき、そのことを親鸞聖人のお姿から学び、喜べる身にならなければいけません。
親鸞聖人がどのようなお気持ちで「正信偈」を作られ、そのように喜ばれたのか、その一端を知るだけでも親鸞聖人のお心にかなうのではないでしょうか。
正信偈の出拠
『御伝鈔』かの三国の祖師、おのおのこの一宗を興行す。このゆゑに、愚禿すすむるところ、さらに私なし。