正信偈の意味【帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数】全文現代語訳

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現代語訳

本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば、浄土に往生する身とさだまる。

この度は、正信偈「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

帰入・・・はからいを捨てて他力に帰依し、真実の世界にはいること。

功徳大宝海・・・功徳のあること「大宝の海のごとし」という意味。名号の功徳

大会衆・・・広大会の聖衆のこと。浄土において阿弥陀様の説法の座に連なっている者を広大会衆という。

浄土真宗の大きな宝ってなんですか?
大宝海といわれるけれど、宝を掴むのではなくて、すでに阿弥陀様に包まれている大きな宝を手にしているんだよ
私は目に見えるモノのほうがいいなぁ

正信偈の原文

帰入功徳大宝海
きにゅうくどくだいほうかい
必獲入大会衆数
ひつぎゃくにゅうだいえしゅしゅ

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲る

【現代語訳】本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば、浄土に往生する身とさだまる。

正信偈の分かりやすい解説

功徳とは

インドの天親菩薩について続きます。「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」(功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲)と「正信偈」には記されています。私たちが功徳の大宝海に帰入するならば、必ず大会衆の数に入ることができるとお示しです。

「功徳」とは修行の結果により積まれた徳のことで、善い行いを原因として生ずる善い結果を意味します。

従来の仏教では、自らの修行によって悟りに近づくという功徳が得られると考えられています。しかし、浄土真宗の立場からすると功徳の意味がまったく異なります。本願他力の教えから自らを省みますと、私たち凡夫が自分で善い原因を作ることは出来ません。私たち欲のある状態で行う修行では、功徳は作れません。私たち凡夫が出来ない善行・功徳を、私たちに代わって、阿弥陀様が善い原因をお作りになりました。そして阿弥陀様がお作りになったその原因によって、善い結果(功徳)が生じますが、その善い結果を阿弥陀様は自らのためではなく、私たち凡夫に振り分けるために積まれた功徳だったのです。その功徳は「南無阿弥陀仏」という名号となって、今私たちに届けられているのです。

五劫
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帰入とは

「帰入」とは、「帰依」と「回入」とを一つにした言葉です。その「帰依」とは、信じて依りどころとすること、阿弥陀様に心身をゆだねることです。「回入」とは、自力の心をひるがえして他力に帰入することです。つまり「帰入」とは、自力はからいを捨てて他力に帰し、真実の世界に入ることを指します。

大会とは

次に自力を捨てて他力に帰入したなら「必獲入大会衆数」と、必ず大会衆の数に入ることができると記されています。

「大会」とは、「たいかい」ではなく「だいえ」と読みます。阿弥陀様がお浄土で、現に説法しておられる会座(えざ)のことです。『仏説阿弥陀経』に

仏説阿弥陀経

今現在説法(いま現にましまして法を説きたまう)

と説かれています。

その阿弥陀様の説法に参集している多数の菩薩を「衆」と呼びます。つまり、凡夫の私たちが「南無阿弥陀仏」を依り所にするならば、すでに浄土に往生して阿弥陀仏の説法を聴聞している人びとの仲間に必ず入ることになるということです。すでに往生している人びとの仲間に必ず入るということは、今、この煩悩のままに、功徳宝海の名号によって往生が決定するということなのです。

なぜ「必ず」と言えるのか。それは、私たちが凡夫であることを見抜いてくださった阿弥陀様が、必ずお浄土に往生させたいと願ったからです。私の力ではお浄土へは参れませんが、阿弥陀様が私たちを抱き取り、導いてくださっておられるから、「必ず」と言えるのです。凡夫の願いや行いならば、条件次第で日々の生活も様々で行き先はどうなるかわかりません。それでは「必ず」などとは言えません。だからこそ、本願は唯一絶待の真実なのです。阿弥陀様の救済は、どのような条件にも左右されることがないのです。

正信偈の出拠

『浄土論』いかんが観じ、いかんが信心を生ずる。もし善男子・善女人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。

『浄土論』また五種の門ありて漸次に五種の功徳を成就す、知るべし。何者か五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり。この五種の門は、初めの四種の門は入の功徳を成就し、第五門は出の功徳を成就す。入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝し、かの国に生ぜんとなすをもつてのゆゑに、安楽世界に生ずることを得。これを入第一門と名づく。入第二門とは、阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得。これを入第二門と名づく。入第三門とは、一心専念にかしこに生ぜんと作願し、奢摩他寂静三昧の行を修するをもつてのゆゑに、蓮華蔵世界に入ることを得。これを入第三門と名づく。入第四門とは、専念にかの妙荘厳を観察し、毘婆舎那を修するをもつてのゆゑに、かの所に到りて種々の法味楽を受用することを得。これを入第四門と名づく。出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通をもつて教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑなり。これを出第五門と名づく。菩薩は入の四種の門をもつて自利の行成就す、知るべし。菩薩は出の第五門の回向をもつて利益他の行成就す、知るべし。

『論註』この五種は、入出の次第の相を示現す。入相のなかに、初めに浄土に至るは、これ近の相なり。いはく、大乗正定聚に入りて、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入りをはれば、すなはち如来(阿弥陀仏)の大会衆の数に入るなり。衆の数に入りをはれば、まさに修行安心の宅に至るべし。宅に入りをはれば、まさに修行所居の屋宇に至るべし。修行成就しをはれば、まさに教化地に至るべし。教化地はすなはちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆゑに出門を園林遊戯地門と称す。

『一多証文』「功徳」と申すは名号なり。「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。

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