現代語訳
阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる。すでに無明の闇は晴れても、貪りや怒りの雲や霧は、いつもまことの信心の空をおおっている。
この度は、正信偈「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
摂取心光・・・他力信心の人を摂め取ってお護りくださる阿弥陀仏の光明のこと
常照護・・・摂取不捨の光明が、常に照らし護ってくださること
無明闇・・・仏智(ほとけの智慧)の明るさに対して、煩悩の闇に覆われているから無明の闇という、真実に対する無知。
貪愛瞋憎・・・貪欲と瞋恚の2つの煩悩、貪りと怒りのこと。愚痴は略してある。
雲霧・・・煩悩を譬えていう。
正信偈の原文
摂取心光常照護
せっしゅしんこうじょうしょうご
已能雖破無明闇
いのうすいはむみょうあん
貪愛瞋憎之雲霧
とんないしんぞうしうんむ
常覆真実信心天
じょうふしんじつしんじんてん
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】摂取の心光つねに照護したもう、すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛瞋憎の雲霧つねに真実信心の天におおえり
【現代語訳】阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる。すでに無明の闇は晴れても、貪りや怒りの雲や霧は、いつもまことの信心の空をおおっている。
正信偈の分かりやすい解説
摂取とは
「摂取」とは、阿弥陀仏が私たちを摂め取ってくださること、仏の光明の中に衆生を照らしおさめとるめぐみのことです。
「光」は仏のはたらきのことを指します。仏教では、私たちは真理を知らない「無知」(無明)な存在であると表します。それは煩悩によって身を煩わし心を悩める存在で、決して清らかな心の持ち主ではないからです。そのことにさえ気づけないから凡夫というのです。親鸞聖人は「摂取」という言葉を解説する上で、凡夫とは阿弥陀仏の救済から逃げるようなもので、その救済は逃げるものを摂めとるようなものであるとお示しくださっています。
智慧と慈悲の関係
仏教では、私たち苦しみ悩む者の心は、暗闇のようだと教えられています。暗闇を破るもの、それが「光」です。「光」のはたらきを受けて、そのまま暗闇でなくなります。私の心を照らし出し、その心の暗闇を破ってくださるのが仏の「智慧の光」というのです。
「智慧」がはたらくとき、それは「慈悲」となって私達にはたらきかけています。この「智慧と慈悲」の関係は、「知識と行動」、「エンジンと動力」、「光と暖める」のような関係です。「智慧」にもとづいた「慈悲」の心のことを、「摂取の心光」と示されています。
「摂取の心光」すなわち阿弥陀仏の光は、「常照護」(常に照護したまう)とあります。いつも私たちの身と心を包んで照らし、私たちを護ってくださっているというのです。
親鸞聖人は、「常照護」を「つねに照護したまう」と読んでいます。常に私たちを照らしている光によって、私たちの「無知」(無明)は破られます。無知・無明であったと気付かされ、また同時に心を支配している煩悩(貪愛・瞋憎・愚痴)を拭い去ることが出来ない事に気付かされるのです。
この光に照らされることによって、「已能雖破無明闇」(すでによく無明の闇を破すといえども)とあるように、「無明」の闇はすでに破られているのです。
三毒の煩悩
「無明」とは、真理に暗く、事象や道理を正しく理解できない状態です。それが凡夫の迷いの根本となる煩悩です。煩悩とは108の煩悩とも言われますが、その根本に「三毒の煩悩」といって「欲・いかり・無知」(貪欲・瞋恚・愚痴)の3つが挙げられます。
「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり)とあるように、「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のように私たちの心に立ち込めて、「真実信心」を覆っています。
「貪愛」は「貪欲」とも言われ、自分の心にかなう対象に愛着し、むさぼり求める心です。それは煩悩(無明・無知)によって起こる心の動きです。無知ですから、むさぼり執着すれば必ず苦という結果をもたらすのに、それを知らずに、自分にとってこの上なく大切なものと錯覚して、愛着をいだくのです。
「瞋憎」は「瞋恚」とも言われ、生きものに対して憎しみ怒ることです。自分の思い通りにならないときに怒ります。自分の思い通りになることを期待し、思い通りになるはずのないことをも思い通りにしようとこだわります。これも煩悩(無明・無知)によって起こります。怒りや憎しみは、他の人びとを傷つけると同時に、自分自身をも傷つけることになります。そして心の平静さを失わせ、ますます間違った方向に自分を追いやってしまうのです。
私達は常に阿弥陀仏の光に照らされて暗闇が破られているにも関わらず、「貪愛」や「瞋憎」という煩悩によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。
しかし阿弥陀様はそんな私達の煩悩はすべてご承知の上で、はるかに上回る阿弥陀様のお光は、そのようなことでは覆い尽くせるものではない記されています。
煩悩について
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正信偈の出拠【参考文】
『銘文』「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無礙光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふはこのこころなり。信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天」といふは、われらが貪愛・瞋憎を雲・霧にたとへて、つねに信心の天に覆へるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。
『観経』あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。
『観念法門』ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光つねにこの人を照らして、摂護して捨てたまはず。
『一多文意』「但有専念阿弥陀仏衆生」といふは、ひとすぢに弥陀仏を信じたてまつると申す御ことなり。「彼仏心光」と申すは、「彼」はかれと申す。「仏心光」と申すは、無礙光仏の御こころと申すなり。「常照是人」といふは、「常」はつねなること、ひまなくたえずといふなり。「照」はてらすといふ。ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく真実信心のひとをばつねにてらしまもりたまふなり。かの仏心につねにひまなくまもりたまへば、弥陀仏をば不断光仏と申すなり。「是人」といふは、「是」は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人と申す。虚仮疑惑のものをば非人といふ。非人といふは、ひとにあらずときらひ、わるきものといふなり。是人はよきひとと申す。「摂護不捨」と申すは、「摂」はをさめとるといふ。「護」はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらはず、信心ある人をばひまなくまもりたまふとなり。まもるといふは、異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなしとなり。「不捨」といふは、信心のひとを、智慧光仏の御こころにをさめまもりて、心光のうちに、ときとして捨てたまはずとしらしめんと申す御のりなり。「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみなといふなり。「不論」はいはずといふこころなり。
「照摂」はてらしをさむと。「余の雑業」といふは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。
『浄土和讃』十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
『論註』かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
『教行信証』しかれば、名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
『教行信証』無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり。
『教行信証』仏光よく無明の闇を破す
『正像末和讃』無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは 高峰岳山にことならず
『一多文意』「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。