現代語訳
たとえ生涯悪をつくり続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば浄土に往生しこの上ないさとりを開くと述べられた。
この度は、正信偈「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
値・・・値遇のいうことで、遇うという意味。必然ではなくたまたま遇うということ。
弘誓・・・本弘誓願のことで、第18願のこと。
安養・・・浄土の別の言い方。安養国とも言われる。
妙果・・・妙え勝れた結果、ほとけの悟りのこと
正信偈の原文
一生造悪値弘誓
いっしょうぞうあくちぐぜい
至安養界証妙果
しあんにょうがいしょうみょうか
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば安養界に至りて妙果を証せしむといえり
【現代語訳】たとえ生涯悪をつくり続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば浄土に往生しこの上ないさとりを開くと述べられた。
正信偈の分かりやすい解説
自力聖道門と他力浄土門とは
道綽禅師は、仏教に「自力の聖道門」と「他力の浄土門」の2つの道があることを示されました。
自分の能力を頼りに修行をして、さとりに向けて努力するのが聖道門です。しかし、お釈迦様ご在世の時から時間が経ち、次第に資質が衰えている凡夫には、まさに難行(不可能)であると道綽禅師は「自力の聖道門」の方法を退けられました。そして自力で悟りをひらくことが不可能な凡夫すべてを救済したいと願われた阿弥陀仏の本願の力(他力の浄土門)の他に、凡夫が救われる道はないと明らかにされました。
「正信偈」の中に道綽禅師のまとめとして「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」(一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむ)と、親鸞聖人はお記しくださっています。
ポイント
自力聖道門・・・凡夫の私たちには不可能な道。さとりをひらけない
他力浄土門・・・阿弥陀仏に凡夫が身をゆだねる。帰依される。浄土に生まれ仏になる。
【紹介】善導大師について詳しく説明
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造悪とは
たとえ生涯さまざまな悪を作る者でも、阿弥陀様の広大な誓願に遇うことができれば、お浄土に往き生まれ、仏のさとりを得ると教えられました。
「弘誓」とは、「本弘誓願」ということです。「本願」、「誓願」、「弘願」など言われますが、どれも阿弥陀仏の誓願です。阿弥陀様は、まだ仏になられる前、法蔵菩薩という菩薩の位だったころ、苦しみ悩む人びとを、すべて浄土に抱き入れようと願われました。そして、その願いが成就しなければ、「私は仏にはならない」という誓いを立てられました。そして、法蔵菩薩は長い思惟、果てしない修行により、その願いを成就し阿弥陀仏になられました。
阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩だったころの話
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「造悪」とは「悪を造る」という言葉ですが、その「悪」は法律で定められた罪を犯し、道徳に反することを行う事ではありません。ここで示される「悪」とは、お釈迦様が明らかにされた真実、人が生きる普遍の道理、それに背くのを「悪」というのです。法律や道徳は、国や文化、時代が変わればそのルールも変わっていきます。それは真実とは言わないのです。だから、阿弥陀様を中心に据えて、「背く」ことを「悪」と示されています。
安養界で妙果を得る
「安養界」とは、心が安らかとなり、身が養われる世界のことで阿弥陀仏の浄土のことです。一生の間、悪をなし続ける者も、浄土に至る、つまり往生できると記されています。
「妙果」とは、妙なる(この上ない)結果ということで、「さとり」を表します。一生の間、悪果を作る者であっても、阿弥陀仏の誓願に遇えば、浄土に往生して、仏になるということです。
しかし、なぜ悪を造ってきた者が浄土に往生し、仏になれるのでしょうか。普通は善い行いをしてきた者が浄土に生まれ、さとりをひらくと思われます。しかし、阿弥陀様の目当ては善人ではありませんでした。
なぜなら、かつて法蔵菩薩であった時、あらゆる浄土をご覧になられ、そこに救いからこぼれ落ちるさまざまな悪人をご覧になられました。救いから漏れない究極の浄土を作り、すべての者を仏にさせると誓い、そして仏になられたのが阿弥陀様だったのです。だから「(阿弥陀様の)弘誓に値いぬれば」ということは、阿弥陀様の救い出会えたものは、道理に逆らい、真実に無知であっても、かならず往生して仏になれます。それは、阿弥陀様が必ず凡夫である私を救いたいと願っておられるからであり、誓っておられるからです。
悪をなす者が往生して仏になれるのは、阿弥陀様の誓願によるからであり、私たちの知性や論理を超えた仏様のお心だったのです。
間違っても悪を作れば作るほど「救われる」という意味ではないことに注意しなければいけません。阿弥陀様は、私たちに「人を苦しめ悲しませること」を勧めていないことは当然のことです。
正信偈の出拠
『安楽集』たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。
『一多証文』遇はもうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。